| 現在は代がわりし、中坊はその経営者でもある。 |
| 同府綴喜郡井手町育ち。 |
| 1942年同志社中学入学。 |
| 1944年同志社中学3年、学徒動員で尼崎市にある三菱電機・伊丹製作所に配属。 |
| 16歳まで夜尿に悩まされる。 |
| 1947年同志社大学の予科へ上がるも農作業に明け暮れ、授業についていけなくなるが、学制改革により旧制の京都大学を受験できる機会を得る。 |
| 1948年同志社大学(新制)入学。 |
| 1949年同志社大学を退学し同志社外事専門学校編入。 |
| 京都大学法学部に入学、しかし農業と受験に明け暮れていた中坊は学内で浮いた存在となる。 |
| 1952年初の司法試験を受験するも不合格。 |
| 1953年京都大学卒業、2度目の司法試験不合格。 |
| 列車乗車時にヤミ米の摘発に遭う、ヤミ米を所持していると間違われて没収されかけたことに激怒「米を認めないなら麦も取れ」と持っていた麦を米にブチ撒けて公務執行妨害で検挙。 |
| 1954年3回目24歳にして司法試験合格、翌年に司法修習生(9期)となるも給料はすべて自分の小遣い、父親を騙して無心と放蕩三昧の日々を送る。 |
| 1957年2年間の司法修習生活を終え「イソ弁」(居候弁護士の意)に。 |
| 遊び癖が抜けず遊蕩三昧、月末は困窮していた。 |
| 1959年2月婚約時からあまり良い顔をしてなかった両親と嫁の仲がそぐわず、結婚を機会に家から離れ、冷蔵庫無し、TV無し、二間、台所、トイレ、洗濯機付の新居で新婚生活スタート。 |
| 依存意識を断ち切るために実家からの干渉はすべて拒む。 |
| 同年4月に独立し大阪に事務所を構えるも閑古鳥が鳴き、事務所で終日タバコを吸うかパチンコをして過ごす。 |
| 同年暮れ、帳簿の決算をしていたら何度計算しても残高が預り金に足りないことに気づき真っ青になる。 |
| 1960年事務所存亡の危機になるも町工場の債権処理の依頼を受け、自ら町工場に出向き工員と経営者を直接指導し仕事を手伝い工場再建のメドをつけ、債権者と話し合い和議に至る。 |
| これをきっかけに事務所に仕事がくるようになり現場主義に目覚める。 |
| 1962年東京オリンピック開催に伴う東海道新幹線の高架敷設による立ち退き問題で京都にある小売市場の自治会役員が中坊の事務所を訪ねる。 |
| 約20店の店子とその家族と共に補償問題が解決するまで工事を行わないよう(建前上は)実力行使も辞さない構えを取り、強行着工してきた場合には「男は一歩引いて、まずは女達に任せろ」と中坊が指示、店子達はその言葉を額面通り受けてしまい強行着工の連絡を受けて現場に駆けつけた中坊は、子供を背負った店子の女性達が重機に立ち向かう光景を見て真っ青になる。 |
| こうした運動の結果、国鉄(現JR)と直接交渉の場を得る。 |
| 1973年森永ヒ素ミルク中毒事件の弁護団長を引き受ける。 |
| 同年4月大阪地方裁判所にて第一回口頭弁論に立つも持参の弁論原稿は読まずに被害者訪問の報告結果を約40分述べて途中で裁判長が落涙しかける(一審で勝訴の判決を得る)。 |
| その後裁判は毎月2日、終日開廷というハイペースで進み、会議、調査、資料作成打ち合わせに忙殺された中坊は入眠困難、味覚障害などの体調及び精神面での障害を起こす。 |
| 同年12月、執行部が原告団に提訴取り下げを通告、突然の出来事に中坊はショックで駅のホームから飛び降りそうになる。 |
| 1985年ペーパー商法で破産した豊田商事の管財人に就任。 |
| 同社の外務員が国に一度納めた源泉徴収済みの所得税を返還させるため、一人で大蔵省へ通いつめたり、実情を知りながら同社の資金に群がっていた企業を説得したり、元社員らの住居を訪ね支払われた給与の返還を求めたり、結果、被害総額の一割を回収、被害者へ還付する。 |
| 当時の活動は「プロジェクトX〜挑戦者たち〜・''悪から金を取り返せ''」として採り上げられた。 |
| 1990年日本弁護士連合会会長に就任。 |
| 龍谷大学で客員教授として教鞭をとる。 |
| 1993年豊島産業廃棄物問題について、地元住民と共に解決への活動を開始する。 |
| 1996年住宅金融債権管理機構の社長大蔵省は財界人から据えたがったが、当時首相補佐だった錦織淳の推薦を受ける。 |
| 、1999年には整理回収機構の社長に就任。 |
| その間、ニュースステーション等の報道番組に出演し難解な法律、金融問題を解説していた。 |
| しかし生来計算が苦手だった中坊は債権処理に携わってくれた銀行マンに「申し訳ないけど、銀行に勤めたとしても課長になれたかどうかも怪しい」と言われる。 |
| 1999年7月27日司法制度改革審議会の委員に就任(2001年7月26日まで)。 |
| 2000年3月7日小渕恵三首相から内閣特別顧問に任命された。 |
| しかし4月に内閣が総辞職するにともない、内閣特別顧問を辞任した。 |
| 2000年住宅金融債権管理機構の社長であった時に、同機構において一部で病気静養中の人間の私財を差し押さえるなど不適切な債権回収が行われていたことが明らかになる。 |
| 2003年その責任を取る形で弁護士の登録取消届を提出同届けは懲戒審査のためすぐには受理されなかった。 |
| 2005年11月11日に登録取消届が受理され、正式に廃業が決まったただこの廃業については「検察の起訴を免れるための司法取引だ」として中坊を批判する声もあった。 |
| 2007年3月22日、大阪弁護士会に入会申込書と弁護士登録請求書を一旦提出したが、7月5日に自ら登録請求を取り下げ、弁護士会への再登録を断念 |