| また、囲碁を好み、囲碁の段位も得た。 |
| その後上京し、明治23年4月に神道無念流・根岸信五郎の道場「有信館」の内弟子となった。 |
| 上京した理由は、富山の旅館を定宿としていた漢学者で有信館門人の細田謙蔵が、従業員の博道からたびたび剣術の話をせがまれるため、有信館を紹介したからであった囲碁棋士を目指していたともいわれる。 |
| (『月刊剣道日本』1988年4月号(スキージャーナル)より)。 |
| 身長160cmの小柄な体格と病弱な体質から、到底ものにはならないだろうと思われたが、睡眠時間を4時間に削る「3時間に削ろうとしたがどうしても無理で、以来、私の睡眠時間は4時間です」と後年に語っている。 |
| (『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社)より)。 |
| などの荒修行を敢行して実力をつけ、明治35年、免許皆伝を得て根岸の婿養子となり、神道無念流と有信館道場を継承した。 |
| その後、中山家の事情により、やむを得ず根岸との養子縁組を解消したが、良好な関係は継続し、根岸の後見で本郷真砂町に新たな有信館道場を設立した。 |
| 剣道においては、高野佐三郎と並び「近代剣道界の双璧」と称される。 |
| 1912年(大正元年)の大日本帝国剣道形制定に際しては、委員を務めた。 |
| 紀元二千六百年奉祝天覧武道大会など昭和初期の天覧試合において、高野と剣道形を何度も演武している。 |
| 官公庁や大企業、大学などに剣道師範として出仕し、有信館の支部も各地に設立したため、多いときで一日5回稽古していた。 |
| 当時の剣道界は既に竹刀稽古全盛で形稽古が軽視されていた。 |
| 博道は大日本武徳会に対し、「形稽古を剣道形のみで良しとするのはあまりに浅薄であり、古流の形も学ぶべきである」旨強く主張したが、手応えがなかったため、自分は自分だけの道を行くと決心し、剣道形、神道無念流、警視流、一刀流、念流、新陰流、武甲流、武蔵流、示現流、一伝流、大木一心流など多くの流派の形を稽古・研究した。 |
| また、形を打つ際、上級者が打太刀、下級者が仕太刀となるのが一般的だが、「稽古のためには上級者も進んで仕太刀となるべきである」として、自身も仕太刀となることが少なくなかった。 |
| このように博道は形稽古も重視していたが、弟子達は竹刀稽古を専ら好む者が多く、晩年、「形無しの棒振り弟子ばかり育ててしまった」と嘆いている「神道無念流の目録以上を允許した弟子は2万人を超えているが、目録允許の条件である剣術・居合の形を着実に守り修行した者はほとんど皆無に近く、御座なり式の形の模造が大半を占めている」と述べている。 |
| (『月刊剣道日本』1988年4月号(スキージャーナル)より)。 |
| 博道の竹刀は、1920年(大正9年)頃までは一般の竹刀と同じ長さだったが、平均的な日本刀と同じ長さに切り詰めることを思い立ち、短い竹刀を用いる一刀正伝無刀流などを研究し、12,3年かけて、2尺8寸まで短くした。 |
| これを試合に用いた感想として、「遠間から勝つには相当苦労したが、近間に入れば返し技が至極よく決まった。 |
| 今の私には、長い竹刀は無駄であるとしか考えられない」と述べている。 |
| 形状も日本刀に出来る限り近い竹刀を求め、佐渡の竹刀職人・本間鉄心と長い交際を続けた。 |
| また、持ち運びに便利なジュラルミン製の折り畳み式胴を使用するなど、防具の工夫・改良も行っていた。 |
| 博道は剣道について、「正しく修行した者ならば80歳までは完全に相手に対抗でき、若い者には九分九厘負けることはない」と説いた。 |
| 60歳や70歳で若者に対抗できなくなるのは、竹刀に悟りを得なかった者だというのである。 |
| 神道夢想流杖術を内田良五郎(内田良平の父)から学び、修得した。 |
| 「杖術を学んだことにより、剣道の裏が分かり、杖の技が剣道に大いに役立った」と述べている。 |
| 明治の末に、居合の教えを求めて高知県に渡った。 |
| 神道無念流でも居合を修めていたが、更に探究したいとの思いであった。 |
| 当初は「よそ者だから」という理由で断られたが、板垣退助の知遇を得て無双神伝英信流の細川義昌を紹介され、細川に弟子入りし、更には無双直伝英信流の森本兎久身の教えも受けた。 |
| 1922年(大正11年)、細川より免許を授けられた。 |
| 博道は両人から学んだ居合に独自の工夫を加え、その居合は博道亡き後、弟子たちによって夢想神伝流と呼称が統一され、現代の居合界において、無双直伝英信流と並び最多の門人を擁している。 |
| 博道は晩年、「居合は剣道と違って一人稽古で競技的刺激がないゆえに、一通り形を習って抜き納めができるようになると、はや一廉の剣士になったと慢心する者が多い」と、居合界の風潮を批判している。 |
| 試し斬りの腕前も高く評価され、大正時代に陸軍戸山学校に招聘されて軍刀操法(戸山流)制定の第一人者となり、戦時中は陸海軍からの依頼で、一日に500振り以上の軍刀を試した。 |
| 私的にも200振りほどの日本刀を所有していたが、日中戦争以降、門人が出征するたびに餞別として贈呈したため、戦後はほとんど手元に残らなかった。 |
| 弓も好み、弓術を28歳頃から55歳頃まで稽古した。 |
| 屋外16間で稽古し、的前より巻藁を専らとし、弦目は最高4匁5分までに達し、総がけのみを心がけて、1寸1分までに至った。 |
| 45歳のときにアメリカ艦隊が横浜に入港してきた際、「弓道対剣道」という異種試合があり、剣道側として出場した。 |
| 木刀を持った博道に対し、弓道教士3人掛かりで白粉のついたタンポ矢を発射した。 |
| 博道はその剣技と弓矢についての知識を活かして対処し、袴に2ヶ所白粉が付く程度で済んだ。 |
| この経験から、「飛び道具を相手にするときは体を動かすことが最大の防御手段である」と述べている。 |
| 手裏剣やフェンシングなどとも対戦・研究し、1937年(昭和12年)に息子の中山善道と共著で、書籍『日本剣道と西洋剣技』を著している。 |
| 槍術も稽古していた。 |
| 戦時中、倉敷の海軍予科練の剣道教師をしていた羽賀忠利は、戦局の悪化による物資不足で海軍司令から槍の指導を命じられ、兄で博道の高弟である羽賀準一に相談したところ、博道を紹介され、東京の博道のもとに2週間寄宿して指導を受けた。 |
| 羽賀が突くと、博道は槍を脇と肘の関節で挟んで封じ、いくら引っ張ってもびくともしなかったという。 |
| 槍術について博道は、「管槍を使うと槍術において重要な槍をしごく手の内が身につかない」として、管槍を批判している。 |
| 柔術も稽古していたが、人前で見せることはなかったという。 |
| ただし、同じ根岸門下であった稲村幸次郎の道場を訪れた際には、稲村と様々な柔術流派の技を試し合ったという。 |
| 合気道開祖の植芝盛平と親交が深く、弟子を植芝の道場に派遣して剣道を指導させたり、高弟の中倉清を植芝の婿養子にするなどした。 |
| また、大学生時代に有信館の門人であった空手家の小西康裕(神道自然流空手道開祖)によると、当時、本土に伝わった唐手(空手)を低級な武道と見なす武道家が多い中、博道は唐手の真価を見抜き、「唐手は素手による剣術である」と評価したという。 |
| このほか、書道を書家の川村驥山より学んでおり、掛軸や扁額、手拭への揮毫が散見される。 |
| 戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は武道を軍国主義の元凶と見なし、大日本武徳会を解散させ、武道を禁止した。 |
| 博道は武道によって戦争に加担したとの理由で戦犯容疑者となり、拘置所に収監された。 |
| やがて釈放されたが、それ以来、高齢ということもあって疲弊し、戦後の混乱で有信館道場も人手に渡ってしまった。 |
| 1958年(昭和33年)逝去。 |
| 戒名は大雄院殿夢想傳道大居士。 |
| 墓は東京都麻布の天真寺。 |