| 静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍し、高校2年生の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、古豪の東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。 |
| 絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にする。 |
| その大会では準決勝まで駒を進めるが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPK負けしベスト4。 |
| しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍する。 |
| 1986年、筑波大学体育専門学群に進学。 |
| 当初静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーに回されるが、後に先輩の長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻る。 |
| 1990年、ヤマハ発動機に入社、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。 |
| 当時まだ実業団であったチームに加入したため、サラリーマン生活も経験した。 |
| 翌年、Jリーグ開幕10チームからヤマハ発動機サッカー部の落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハ残留を決めた。 |
| 1992年に広島で行われたアジアカップに日本代表として招集され、スーパーサブとして優勝に貢献するなど代表に定着すると、クラブがジャパンフットボールリーグ在籍にもかかわらず、1994年アメリカワールドカップ予選の日本代表にも選ばれ、最終予選では途中からスタメンに定着して獅子奮迅の活躍を見せる。 |
| また予選中その陽気なトークや(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)熱意剥き出しのプレーがマスコミで話題となり、一躍全国区の人気者となる。 |
| ドーハでのイラク戦でロスタイムに同点ゴールを決められた際に、交代してベンチに座っていた中山が地面に頽れた様子は、ワールドカップ行きの切符を逃したこの試合・出来事をテレビ番組などで振り返るときに必ずといっていいほど流されるシーンとなった。 |
| またこの年、ジュビロ磐田はジャパンフットボールリーグ1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たす。 |
| 前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニア(現在は「グローインペインシンドローム」と総称される、サッカー選手に頻発する股関節障害)が悪化し、1994年のシーズンは開幕当初は試合に出場したが、4月末に戦線離脱を余儀なくされる。 |
| 当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手も居たが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎や福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術。 |
| 以後リハビリが続き8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振る。 |
| 1995年には怪我から復帰し開幕から好調なスタートを切った。 |
| 元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビはJリーグ最強と言われた。 |
| 前年の怪我のために離れていた代表にもキリンカップで復帰したが、6月のアンブロカップ英国遠征にて故障し、翌シーズンの不調もあり一時期代表から遠ざかる。 |
| 1997年は、ドゥンガや山本昌邦らとのトレーニングにより、「ボールを持たない時の動きの質」に開眼。 |
| 第2ステージでは自身Jリーグでは初のハットトリックも記録するなど活躍してステージ優勝に貢献。 |
| 直後に1998年フランスワールドカップ最終予選の最終局面で代表へ復帰して今度は日本代表の予選突破に、更に鹿島とのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、ジュビロ磐田のリーグ初制覇に貢献する。 |
| 1998年にフランスワールドカップに日本代表として出場。 |
| グループリーグで敗退したものの、3試合すべてで先発し、ジャマイカ戦で日本代表のワールドカップ初ゴール・日本人初ゴールを決める。 |
| その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了まで走り続けたことは、日本代表としての誇りと魂の象徴として、今も語り草になっている(但し「骨折していながらもゴールを決めた」「ゴールと引き換えに骨折した」というのは誤解)。 |
| 同年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居)での5得点(Jリーグのリーグ戦における「1試合1人での最多得点」タイ記録)を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦(磐田)で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦(水前寺)で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦(磐田)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された。 |
| この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。 |
| ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点(現在でもリーグ戦の最多得点記録)を記録し当年度の得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。 |
| しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱に燃える鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。 |
| 1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。 |
| コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。 |
| 失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。 |
| それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水とのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。 |
| なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。 |
| 2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。 |
| しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。 |
| なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。 |
| これ以前の記録は、1938年11月16日にイングランド代表のジョージ・ホールがマークした3分30秒であった。 |
| 2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。 |
| 前年からの好調を続け代表にも復帰。 |
| クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れリーグ勝利をのがす。 |
| 更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末敗れるなど、無冠に終わる。 |
| 2002年、当初は候補合宿に招集されるなど2002年日韓W杯代表入りが有力視されていたが、リーグ開幕から不調(ワールドカップによる中断までわずか1得点)で、直前の海外遠征のメンバーから外された。 |
| 更に当時のトルシエ監督が落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測・報道が多数を占めたが、世間一般からの「中山待望論」(直前のカップ戦ではアウェイゲームにも関わらず相手サポーターからも「ナカヤマ・ニッポン」コールが起こった)に加え、ベテラン抜きだった直前遠征で結果が出せなかった代表に足りない「精神的支柱」としての意味もあり、秋田豊とともに2002年日韓ワールドカップ日本代表に選出され、背番号10を背負った。 |
| 日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立つ。 |
| 「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手となった。 |
| クラブではリーグ得点王となった高原直泰とのコンビで再開後のリーグ戦でゴールを量産。 |
| 磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献しベストイレブンに選出された。 |
| 半年のリハビリの末、終盤戦に復帰するが、リーグ戦の優勝は逃す。 |
| しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。 |
| 2005年5月1日の柏レイソル戦(柏の葉)前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。 |
| 9月24日の柏戦(ヤマハ)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。 |
| 2006年9月17日の川崎フロンターレ戦(等々力)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールという記録を達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮戦で達成)。 |
| この記録は過去に三浦知良(2006年に当時J2の横浜FCにシーズン通して在籍しており、J1リーグ連続ゴール記録は断絶している)、澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。 |
| 2007年には5月3日の清水エスパルス戦(日本平)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。 |
| このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。 |
| 2008年3月15日のガンバ大阪戦(静岡スタジアムエコパ)でもロスタイムにゴールを挙げ、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。 |
| 5月25日にはナビスコカップ清水エスパルス戦(日本平スタジアム)で、後半43分にCKをヘディングで決めて、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜いてナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える(中山は40歳8か月2日)で、快挙を達成したが、試合には敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。 |
| ヤマハスタジアムでの最終公式戦となった11月28日の広島戦の後半途中から出場し、ラモス瑠偉が持つJ1最年長出場記録(41歳9か月5日)を更新(42歳2か月5日)。 |
| 最終節は出場機会は回ってこなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え、1万5000人の拍手を浴びながらジュビロでの最後の試合を終えた。 |
| 退団発表後、ロアッソ熊本、FC町田ゼルビア、横浜FC、コンサドーレ札幌、V・ファーレン長崎、藤枝MYFCの6クラブが興味を示し、獲得の意思を表明。 |
| 年俸提示は最も低かったが、「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」、施設や医療体制が充実しているコンサドーレ札幌への移籍を決断した。 |