| 小学校では音楽部(器楽部との表記もある)で木琴担当。 |
| 中学ではソフトボール部を辞めたあと、テニス部と演劇部をかけもち入部。 |
| これが演劇との出会いとなり、以後芝居に魅せられていく。 |
| 高校は県大会に10年以上連続出場している演劇の名門校で、中川が高2の時には10数年ぶりに東北大会まで進出した。 |
| この時、生まれて初めてうれし涙を流したという。 |
| 『銀河鉄道の夜』をモチーフにした<大人になれない子供たちのために>というサブタイトルがついた劇で、中川はカンパネルラを演じた1998年度の『オリコンウィークtheichiban』(オリコン刊)に短期集中連載された『微笑みのドキュメント』より。 |
| 大学時代は声優を目指す活動と同時に演劇同好会の旗揚げに参加し、4年間、学生演劇にも励んだ。 |
| 自分の子供時代を、無愛想、引っ込み思案、人見知りと評することが多い。 |
| 自分から話しかけることはまずなく、消極的で内気で何もしゃべらず、「おとなしいね」という言葉に傷ついているような子であり、授業中に皆が手を挙げているとき、一人だけ挙げていないと逆に指されそうであるため、当てられるのが嫌でおそるおそるあげていた。 |
| 友達が誘いに来ても、そのまま本を読んでいて結局行かず、日曜に友達と約束して遊びにいった記憶がほとんどない。 |
| 初めて文化祭で芝居をした時は「あの中川が!」「舞台の上ではしゃべれるんだね」と言われた。 |
| 音楽の時間はいつも口だけを動かして歌声は出さず、カラオケも大の苦手だったが、声優デビュー後、レコーディングやライブ等で歌う回数をかさねて克服していく。 |
| 歌は声優業、演劇の延長線にあるという「気持ちを伝えるってことではお芝居も歌も同じだって、気づいたんです。 |
| ミュージカルみたいに、歌い手の気持ちを音にのせればいいんだって。 |
| 声を楽器的に使うんじゃなくて、声として使って、気持ちを開放すること。 |
| それがとても楽しいことだって、今さらながらに感じてます。 |
| 『UPtoboy』(ワニブックス社刊)1997年11月号より。 |
| 毎朝、般若心経を唱える祖母の隣で一緒に唱えるくらい、結構な「おばあちゃん子」だった『hm3』第4号(音楽専科社刊)より。 |
| 内気な子供だったが、盆踊りは大好きであった。 |
| 国語の教科書を朗読することや放送委員としてマイクの前で原稿を読むことなどは楽しめた一面もあった。 |
| 初恋は、小学校3年のとき。 |
| 転校間際に手紙で思いを伝えた。 |
| 転校後も数回手紙を出したが、それきりになった。 |
| 中学時代はとくに自分を出せなかった時期である。 |
| 教師から、おとなしいことをネガティブなニュアンスで言われたことなどを両親が心配し、高校はミッション系の女子高を選択することになる。 |
| 高校は自分を出せるようになった場所であり、演劇部は、居心地のいい空間をみんなで作っていた感じだという。 |
| 演劇を目指していたからこそ、がらっと違ったものを勉強しようと大学は法学部を選んだ。 |
| 大学時代はパン屋、ケーキ屋、テレフォンアポインター、東京ディズニーランドのウェートレスなど、様々なアルバイトをこなした。 |
| ある程度決められた範囲で人に応対する接客業は好きだったという。 |
| 大学の演劇同好会では、合宿で伊豆七島へ向かうとき、同好会のメンバーからパスポートが必要だと担がれ、信じて持参したパスポートを提示したことがある。 |
| 「声優になれるという自信はいつもあった。 |
| 時には体力的にきつい思いをしながらも、演劇をずっと続けてきたことが気持ちの支えになっていた。 |
| 」という談『hm3』第4号(音楽専科社刊)、1998年度の『オリコンウィークtheichiban』(オリコン刊)に短期集中連載された『微笑みのドキュメント』より。 |
| がある。 |