| 怪談映画の巨匠と呼ばれることが多いが、いつごろからこの称号がついたのかは不明である。 |
| 映画評論家の佐藤重臣は映画評論1959年8月号掲載の『東海道四谷怪談』作品評において「中川信夫のお化け映画は、ひとつの定評のあることを聞き伝えに知ってはいた」『作品評』、p.118.と書いており、おそらくこの頃には既にお化け映画の名手などと呼ばれていたのではないかと思われる。 |
| キネマ旬報1974年10月下旬号に中川自らが寄稿した『怪奇映画問答』では、新東宝時代に製作した怪奇映画について「まァまァという出来だと思いましたら、フタを開けてみますと世評が割に良く、(中略)オーバーに申せば伝説的にまで持ち上げる人もあり、今日に至った」と、怪談映画の巨匠と持ち上げられることに戸惑いを覚えたと書いている『怪奇映画問答』、p.114。 |
| 生誕102年を記念して2007年に製作・放映されたドキュメンタリー『映画と酒と豆腐と~中川信夫、監督として人間として~』CS日本映画専門チャンネル、2007年7月2日初回放映 |
| )冒頭のナレーションは「(中川が監督した)怪談・恐怖映画は、全97作品中8作品しかない」と語り『映画と酒と豆腐と』、0分17秒。 |
| 、番組全体も、怪奇映画のみが突出して語られることの多い中川信夫が、実は多種多様な作品を残した監督であることを強調し、「怪談映画の巨匠」の面だけが強調されることを避けるような構成になっている。 |
| 1974年に『怪談軒凝斎』という怪談映画を作る自身の心境を託した詩を書いたのをきっかけに、以後たびたびこの名前を自身の号として名乗っていた『怪談軒凝斎・中川信夫』、p.66-p.67.。 |
| 自宅の玄関前に『業流怪談軒凝斎道場』という看板を出していた時期もある『映画と酒と豆腐と』、5分23秒。 |
| 生活に困窮した若き日のことや、家族のこと、友のこと、人が生きることなどに思いを馳せた詩を書き綴り、1981年にそれらをまとめて『業』というタイトルをつけた詩集を出版した。 |
| 生前の中川信夫と親しく接した脚本家の桂千穂は、欲望などおのれの業の深さから逃れ得ない人間の悲喜劇こそ中川映画のテーマであると語り、「生活の辛酸を嘗めつくし人生修羅の深淵を見極めた末に、一種の諦めに到達した」とその姿勢を表現している『怪談軒凝斎・中川信夫』、p.66-p.67.。 |
| 同人誌時代にカフェーで酒の味を覚えたというが『青年時代を語る』、p.172、頻繁に飲むようになったのは右太プロ時代からである。 |
| もともとは市川右太衛門を演出するプレッシャーと自作の脚本をなかなか映画化させてもらえない不満から酒量が増えていったと中川本人は自叙伝の中で語りわが心の自叙伝、p.25.、右太プロ以来終生の友となった映画評論家の滝沢一は、右太プロの女優・有島鏡子に失恋したことが、中川の自暴自棄な飲酒に拍車をかけていったと語っている『人間・中川信夫職人・中川信夫』、p.286.。 |
| また、酔うと近所に住む映画人の表札をはがして回るという酒乱でもあり、伊丹万作、三村伸太郎、嵐寛寿郎などがその被害にあった『表札』、p.117-p.118.。 |
| マキノ・トーキー移籍後から監督業が軌道に乗ったこともあって精神的にも安定したが『人間・中川信夫職人・中川信夫』、p.287.、以後も酒を手放すことはなく豆腐を肴に日本酒を飲むことを終生愛した。 |
| 長男の中川信吉は「1年のうち豆腐は365日片時も欠かさなかった」と語っている『映画と酒と豆腐と』、44分30秒。 |
| 葬式の時には酒屋と豆腐屋が香典を持って現れたという『映画と酒と豆腐と』、44分55秒。 |
| 中川信吉は、少年時代にそうした父の姿を見て「成人しても酒は飲むまい」と心に誓っていたが、20才の誕生日に、茶の間に父親から日本酒一升瓶のプレゼントが置いてあり、以後中川が死ぬまで毎日の晩酌につきあうこととなった。 |
| 一週間禁酒をした時には、「何故そんな馬鹿なことをするんだ、いいから飲もう」と中川に毎日説得されてまいったと語っている『父』、p.74.。 |
| 下駄ばきで腰に手ぬぐいをぶら下げ、頭には登山帽をかぶるのをトレードマークにしていた。 |
| その姿について『東海道四谷怪談』などに主演した若杉嘉津子は、初対面の第一印象を「ええ、あれが先生(映画監督)なの。 |
| 何か(撮影所に出入りの)電気屋のおじさんみたい」だったと語り『若杉嘉津子インタビュー』、p.28.、『思春の泉』などの助監督をつとめた瀬川昌治は「どこの小学校の先生かっていう風貌だった」と回想している『映画と酒と豆腐と』、9分55秒。 |
| 俳優を演出する時は「さり気なく演技して下さい」が口癖だった『人間・中川信夫職人・中川信夫』、p.285.。 |
| 若杉嘉津子は、中川の演出を「気持ちから入って演出する人」と語り『若杉嘉津子インタビュー』、p.28.、沼田曜一は「何も言わないから(監督が何を考えてるか)こっちも考えちゃう。 |
| でも出来ないと、カメラを引いてしまう、それが怖かった」青ヶ島の子供たち女教師の記録#エピソードと証言している。 |
| 中川がさり気ない演技を注文するようになった理由について、滝沢一は、大芝居をやる市川右太衛門の演技を抑える工夫から出たものだと語っている『人間・中川信夫職人・中川信夫』、p.285.。 |
| 自作について「(他の監督が断る)変なもんはすぐ僕のところへ来る」『全作品を語る』、p.207.作品をこなし続けた「裏街道人生」『全作品を語る』、p.197.と表現していたが、新東宝時代にはカメラマンの西本正や美術監督の黒澤治安など優秀なスタッフの協力を得て、次々と実験的な演出に挑戦した。 |
| 『雷電』では2分半におよぶワンシーン・ワンカットに挑戦し『映画と酒と豆腐と』、7分20秒。 |
| 、『東海道四谷怪談』ではローポジションからのワンシーン・ワンカットを描くために車両機材を新たに作るなどしている東海道四谷怪談(1959年の映画)#概要。 |
| 活躍の場がテレビドラマに移ってからも実験精神が衰えることはなく、『プレイガール』262話『怪談・屋根裏の悪霊』(1973年)では、通常1時間(実動、48分40秒)のドラマで3、400カットのところ、1000カット撮影に挑戦した『千カット自讃日記(前編)』、p.110.。 |
| 『業』所載の詩『死酒』には、「おれが死んだら おれの死顔の上に一升の酒をぶっかけろ(中略)一級酒がいい特級酒はいやだよ二級酒もごめんだ」というくだりがある『映画と酒と豆腐と』、23分14秒。 |
| ドキュメンタリー『映画と酒と豆腐と』では、この詩を「特級酒のような高級世界は窮屈だし、二級酒のような苦しい生活も実体験から拒否をした。 |
| ごく普通の世界で生きたいという願望」と解釈している『映画と酒と豆腐と』、43分5秒。 |
| 中川信吉は毎年、正月か命日が近くなると父の墓参に訪れ、酒と豆腐ともうひとつの好物だったというアンパンを中川の墓前に供えることもある『映画と酒と豆腐と』、43分21秒。 |