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つながりの強いひと
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清原和博
大阪府岸和田市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球評論家。 |
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山崎武司
東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(内野手)。名字の読みは「やまさき」で、「さ」の音は濁らない。1999年5月21日より、登録名を『山崎武... |
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藤川球児
阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。元高知ファイティングドッグス・ゼネラルマネージャーの藤川順一は実兄。 |
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谷佳知
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(外野手)。大阪府東大阪市出身。夫人は、元柔道選手・民主党参議院議員の谷亮子。 |
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東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(投手)。兵庫県伊丹市出身。愛称は「マー君」、「マーさん」、「マー」、「まさお」など。 |
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井口資仁
千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手(内野手)。 |
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落合博満
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川上憲伸
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仰木彬
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田口壮
福岡県生まれ、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(外野手)。オリックス・バファローズ所属。妻は元TBSアナウンサーの香川恵美子。 |
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野茂英雄
大阪府大阪市港区出身の元プロ野球選手(投手)。 |
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中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。 |
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憲史
福岡県八女市出身の元プロ野球選手(外野手)。現在は、野球解説者。 |
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村上隆行
福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球監督。トゥルーマサに所属している。現役時代後半の登録名は村上嵩幸。 |
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星野仙一
岡山県倉敷市出身のプロ野球選手、プロ野球監督。現役時代のポジションは投手。 |
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城島健司
阪神タイガースに所属するプロ野球選手(捕手)。長崎県佐世保市出身。 |
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野村克也
京都府出身の元プロ野球選手(捕手)・監督・野球解説者、野球評論家。所属事務所はエフエンタープライズ。血液型はB型。愛称は「ノムさん」。 |
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井上一樹
鹿児島県出身の元プロ野球選手(外野手)。中日ドラゴンズに所属し、からは選手会長を務めた。を以って現役を引退し、は中日の打撃コーチ、からは中日の二軍... |
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小笠原道大
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(内野手)。 |
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李炳圭
韓国・LGツインズに所属するプロ野球選手(外野手)。韓国・ソウル特別市出身。 |
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プロフィール
- 中村紀洋とは
- プロ入り前
- 近鉄時代
- アメリカ球界時代
- オリックス時代
- 中日時代
- 横浜時代
- 打撃
- 落合博満の影響
- 守備
- 表彰
- 記録
中村紀洋(なかむらのりひろ、1973年7月24日-)は、横浜ベイスターズに所属するプロ野球選手(内野手)。大阪府大阪市出身。愛称は「ノリ」。家族は妻の浩子(近鉄でのチームメイト 村上隆行の妹で、元実業団バレーボール・日立の選手)と3女。義姉(妻の姉)は元プロ野球選手の 野林大樹と1991年結婚にしたが、2008年に離婚する。そして、その義姉の子は広島東洋カープ所属の 中田廉である。すなわち、親戚には元プロ野球選手も含めプロ野球選手が3人もいる。
プロ入り前
| 1985年4月17日の阪神タイガース対読売ジャイアンツの試合を観に行き、バックスクリーン3連発を観客席で見ていた{{Citeweb|date=2010-08-09|url=http://fan.npb.or.jp/slogan/2010/game/e/infield.html|title=内野手|東北楽天ゴールデンイーグルス|「最高の試合」「名場面・名勝負」|2010年NPBスローガン「ここに、世界一がある。 |
| 」スペシャルコンテンツ|publisher=日本野球機構|accessdate=2011-05-24}}。 |
| 大阪府立渋谷高等学校時代は、の全国高等学校野球選手権大阪大会で2年生ながら4番打者として活躍、4本塁打を放つ。 |
| 守備でも三塁手兼投手として活躍し、チームを甲子園初出場に導く。 |
| 甲子園では初戦(2回戦)で敗れたが、大阪府立高校の出場が8年ぶりであったということもあり、話題となる。 |
| 高校時代の同級生に大鳥れい(元宝塚歌劇団花組トップ娘役)がいる。 |
| その後、1991年のドラフト4位で近鉄バファローズから投手として指名を受け、入団。 |
近鉄時代
| 欠場中、団野村を代理人として、ポスティングシステム(入札移籍制度)によるメジャーリーグ入りを企図していることが報じられる。 |
| 11月3日にメジャーリーグ入りの意思を表明。 |
| 近鉄と2年前に結んだ契約にポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍を容認する内容が含まれていたと説明する。 |
| 11月8日の選手分配ドラフトの結果、合併球団オリックス・バファローズに振り分けられた。 |
| 12月1日に合併球団が発足、4年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残りの契約期間の年俸(2年分10億円)に相当する保証金を近鉄に要求したが認められなかった。 |
| 1月25日にポスティング申請し大阪近鉄と業務提携していたロサンゼルス・ドジャースに落札された。 |
| 2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。 |
| 背番号は近鉄入団当時と同じ66に決まった。 |
| この年発生した奈良小1女児殺害事件では被害女子が近鉄のファンで自身の娘と同年代ということもあり、サイン入りの野球用具を贈り霊前に供えられた。 |
アメリカ球界時代
| 4月2日にAAA級パシフィック・コーストリーグのラスベガス・フィフティワンズへ合流するように通告されたが、4月10日には故障者リスト入りしたアントニオ・ペレスに代わって念願のメジャーリーグ昇格を果たした。 |
| しかし5月8日の試合後、メキシカンリーグでプレーしていたオスカー・ロブレスが40人枠入りしたのに伴い40人枠から外される。 |
| ウェーバー公示にかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったためAAA級への降格を了承、再びラスベガスでプレーする中村はマイナーでのプレーを「罰ゲーム」と語ったと報道される。 |
| 本人の発言かどうかは不明だが、これが中村のイメージを大きく低下させたこととなる。 |
| 3A屈指の打者天国として知られるラスベガスでは、本塁打こそリーグ17位の22本と健闘するが、打率.249は規定打席を満たした選手90人のうち85位と低迷、渡米前に自信を見せていた守備でもチーム最多の20失策を記録。 |
| この際「成績を見れば一目瞭然、トップクラス。 |
| 何故マイナー落ちなのか納得出来ない」、「イチローもマイナー契約ならメジャーには上がれなかった」と発言をした。 |
| 9月5日にAAA級のシーズンが終了。 |
| 団野村との代理人契約を解除し、日本復帰を目指す。 |
| 12月21日、分配ドラフトからドジャース入りまでの間、一時在籍したオリックスへの復帰を表明中村はドジャースと1月末までの契約を結んでいたため、2005年のオフに日本へ復帰するためには、ドジャースとの業務提携により中村との優先交渉権を得ていたオリックスへ入団する以外に選択肢はなかったとされている。 |
| 推定年俸2億円プラス出来高払い5,000万円の単年契約。 |
| 背番号は8ドジャース移籍前に使用していた背番号5は清原が使用していたため、3+5=8とした。 |
オリックス時代
| 契約交渉では中村が左手首の故障を「公傷」と主張したのに対し、球団側はそれを認めず、60%減の8,000万円(推定)の単年契約を提示。 |
| 2月12日、中日ドラゴンズからテスト生としてのキャンプ参加を呼び掛けられ、同15日から同チームのキャンプに参加その前に、メジャーリーグのミネソタ・ツインズが中村の入団テストを要請したが、中村は国内球団を強く要望していたため断った。 |
| ここで入団テストを行い、同25日、育成枠での中日入団が決定(年俸400万円)。 |
| 背番号は205中日の育成選手が慣例として200番台を与えられることと、近鉄時代に背番号5を着けていた中村に落合博満が配慮したものである。 |
中日時代
| 育成枠で中日入団を果たすとオープン戦で結果を残し、リーグ戦開幕直前の3月22日、年俸600万円ただし、日本プロフェッショナル野球協約第89条の2の規定により、1年間出場選手登録をしたことから1,500万円となった。 |
| で支配下選手契約を結び、背番号も99中村自身がかつて着けていた背番号は、当時の中日では全て主力選手・落合博満が使用中である事や、球団と落合の方針で、一から出直す為に99を着けさせた。 |
| 中村本人は「プロ入りした際に初めて着けた番号(66)をひっくり返したもの」と語った。 |
| に変更された。 |
| 開幕戦から公式戦に出場し、序盤は5番や7番を、シーズン後半は故障で離脱した福留孝介の代役で3番を任された。 |
| 広角に打ち分けるバッティングで打率.293(チーム3位)、2年ぶりの20本塁打(同2位)、79打点(同3位)で日本一に貢献した。 |
| 9月10日には北京オリンピックアジア予選決勝リーグ日本代表候補に選出された。 |
| 日本シリーズでは持病の腰痛が悪化していたため鎮痛剤を射ちながら強行出場し、打率.444(18打数8安打)、4打点と活躍。 |
| 11月1日第5戦にて日本一を決め、日本シリーズMVPを獲得した中日の野手としては史上初の受賞であり、近鉄に入団および在籍経験者の獲得においても初めてである。 |
| オリックス退団から1年間の苦しみが頭をよぎったのか、日本一決定後のヒーローインタビューでは男泣きを見せた。 |
| アジアシリーズでは帰国したタイロン・ウッズの代役として4番に起用された。 |
| 11月30日に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップ日本球界歴代3位、セ・リーグでは歴代1位となる年俸アップ率となる年俸5,000万円の提示を受けこれを一発で了承し契約更新となった。 |
| 12月5日に仙台市内で入団会見。 |
| 背番号は自身の希望もあり、中日時代と同じ「99」となった。 |
横浜時代
| 2011年6月8日に一軍登録され、同日の楽天戦(Kスタ)に「7番・一塁手」でスタメン出場した。 |
| 2011年6月18日、横浜スタジアムでのソフトバンク戦で代打で出場し杉内俊哉から移籍後初本塁打。 |
| この本塁打で同点に追いつきその後ターメル・スレッジの本塁打でチームは勝利した。 |
打撃
| バッターボックスではホームベースから離れてキャッチャー寄りに立ち、オープンスタンスの神主打法に構え、テイクバックを大きく取り、左足を大きく上げフルスイングによる長打を狙うスタイルだった。 |
| 広角に強い打球を放つが、同時にバットコントロールも巧みであり、バントもうまい。 |
| 4番に定着していた近鉄時代はほとんど見せなかったが、チームバッティングが求められる中日に入団してからは、次の1点が欲しい時によく指示が出され、ほぼ成功させている。 |
| 2000年から2002年までは3年連続で5月の月間MVPを獲得するなど、5月になるとバッティングの調子が上がることが多く、「ミスターメイ」の異名を持つ。 |
| 近鉄~オリックス時代は「ホームランの打ち損じがヒット」「ホームランを捨てればいつでもヒットは打てる」とまで豪語し、ミスターフルスイングの異名を小笠原道大と分け合う程の豪快なパッティングスタイルが売りであった。 |
| 度重なる左手首の手術で左手の握力が極端に弱くなったことから本人は「左手の握力は20kgもない」と語っており、フルスイングでなければかえって手首に負担がかかり故障が悪化する懸念があったことも、常にフルスイングのスタイルが形勢される要因であったという。 |
| 左手の握力が無いが故にインパクトの際に右手でバットを押し込む動作が洗練され、フルスイングする打者でありながら広角打法になったのだという。 |
落合博満の影響
| 自身と同じくオープンスタンスの神主打法を採用していた落合博満を打撃の「師」と仰いでおり、近鉄時代から度々助言を求めている。 |
| シーズン中も「調子はいいんですが、打球が上がらなくて本塁打が出ないんです」と相談し、「変に打球を上げようとすると調子を崩すから気にするな、お前ならそのうち自然に本塁打を量産できる」と回答されたこともあった。 |
| 中日時代には監督となった落合の勧めで試合前のバッティング練習時にはオープンスタンスを修正していたが、腰痛持ちであること、長年親しんだフォームであることなどもあってか、試合のときには自然とオープンスタンスになっている。 |
| また、左手首への衝撃を和らげるためにサミー・ソーサを参考にして1999年頃からバットのグリップにテープを巻き、グリップエンドに左の薬指まで指を掛けるようになった。 |
| 中日時代の「同僚」だったドアラは、「自身のパフォーマンスはノリさんには通用しないのでは?」と一抹の不安を感じていたが、試合前の練習中だった中村の方から「赤いリストバンドしているんだね。 |
| しかし、ホームランを打った時の中村からのハイタッチは力が強いのでタイロン・ウッズの次に痛いとコメントしていた2008年1月27日に放送された中京テレビSPORTSSTADIUMのスペシャル対談企画「スポスタ鍋」のコーナーで紹介された「ドアラからの手紙」より(ドアラ本人は喋れないため)。 |
守備
| 中日時代の2007年シーズン中ごろから2008年まではリードしている試合の終盤になると守備に難のあるタイロン・ウッズに代わって一塁手に回ることも多かった(三塁には森野将彦が入る)。 |
| 楽天移籍後もスターティングメンバーの一塁手にはDHを兼務する守備に難のある、またベテランや外国人の長距離砲(フェルナンデス、山崎武司など)が入ることが多かったため、やはり終盤になると一塁手に回ることも多かった。 |
| また、草野大輔も本職が三塁手であることから、草野が二塁に回ることもあったが、中村が一塁手としてスターティングメンバー出場することもあった。 |
| 真喜志康永(現・北海道日本ハムファイターズ一軍内野守備コーチ)は『ベースボールクリニック』誌のインタビューにおいて、「中村は守備練習が好きで率先してやっている」と語った。 |
表彰
| 両リーグでの年間連続受賞は新庄剛志・平野謙に次いで3人目。 |
| 日本シリーズMVP:1回(2007年)。 |
| オールスターゲームMVP:1回(2001年第3戦)。 |
| 月間MVP:5回(1999年8月、2000年5月、2000年9月、2001年5月、2002年5月)。 |
記録
| 初出場:1992年6月12日、対福岡ダイエーホークス8回戦(平和台野球場)、8回表に代打として出場。 |
| 初安打・初本塁打・初打点:1992年6月18日、対日本ハムファイターズ15回戦(藤井寺球場)、5回裏に河野博文から3ラン。 |
| 初盗塁:1996年5月17日、対西武ライオンズ5回戦(西京極野球場)、4回裏に二盗。 |
| 100本塁打:1998年9月16日、対千葉ロッテマリーンズ戦(大阪ドーム)、9回裏に河本育之から逆転サヨナラ3ラン。 |
| 200本塁打:2001年6月13日、対福岡ダイエーホークス12回戦(福岡ドーム)、7回表に吉田修司から右越ソロ※史上72人目。 |
| 1000試合:2001年9月2日、対日本ハムファイターズ27回戦(東京ドーム)、4番・三塁手として先発出場※史上375人目。 |
| 250本塁打:2002年8月18日、対西武ライオンズ21回戦(西武ドーム)、1回表に張誌家から左越2ラン右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。 |
| 300本塁打:2004年6月4日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に高木晃次から2ラン※史上29人目。 |
| 1500試合:2007年5月6日、対横浜ベイスターズ9回戦(ナゴヤドーム)、5番・三塁手として先発出場※史上151人目。 |
| 1000打点:2007年7月5日、対広島東洋カープ10回戦(ナゴヤドーム)、4回裏にジャレッド・フェルナンデスから左翼へ適時二塁打※史上29人目。 |
| 1500本安打:2007年9月26日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、1回表に高橋尚成から左前安打※史上95人目。 |
| 350本塁打:2008年6月7日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に星野八千穂から左越2ラン※史上22人目。 |
| 1500三振:2010年8月18日、対オリックス・バファローズ21回戦(スカイマークスタジアム)、5回表に近藤一樹から※史上10人目。 |
| 通算サヨナラ本塁打:9本(歴代単独3位)9本目は2008年6月17日、対埼玉西武ライオンズ(石川県立野球場)元同僚の岡本真也から。 |
| 代打満塁本塁打:1回(2007年10月6日、対東京ヤクルトスワローズ戦、明治神宮野球場)。 |
| 3打席連続本塁打:4回(1997年9月20日、2000年9月7日、2001年9月8日-9月9日、2008年7月29日-8月3日(球宴期間明け))。 |
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1973年
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中村 紀洋(なかむら のりひろ)は、横浜ベイ... |
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1992年
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初出場:、対福岡ダイエーホークス8回戦(平... |
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中村紀洋さんについてのひとこと紹介
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