| File:Curvasudromacampione.jpg|thumb|right|200px|2001年ローマは18年振りにスクデットを獲得した。 |
| 日本の初出場となった1998年フランスW杯では、チームの核としてグループリーグ全3試合にフル出場。 |
| 中田のプレーは海外のクラブに認められ、W杯後獲得に名乗りをあげたクラブは12にのぼった『中田英寿鼓動』参考。 |
| セリエA(イタリア)…ユヴェントス、サンプドリア、ペルージャ、ボローニャ。 |
| プレミアリーグ(イングランド)…アーセナル、アストン・ヴィラ、ニューキャッスル、クリスタルパレス、サンダーランド。 |
| リーグ・アン(フランス)…パリ・サンジェルマン、マルセイユ。 |
| スコティッシュ・プレミアリーグ(スコットランド)…セルティック。 |
| アーセナル、ユヴェントスというビッグクラブは、レンタルに出される危険性があったために選択せず『中田英寿鼓動』、同年7月、21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ移籍金470万ドルで完全移籍した『ナカタノナカミ』。 |
| 1998-1999シーズン開幕戦で、ジダンを擁する強豪ユヴェントスから2ゴールを奪うセンセーショナルなデビューを飾ると、年間10得点(うちPK4得点)をあげるというミッドフィールダーとしての当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立て、イタリアの有力スポーツ誌グエリン・スポリティーボが選出するセリエA初年度の外国人選手を対象にしたセリエAサプライズ賞に選ばれた。 |
| 1999-2000シーズン開幕前には中田に興味を示す欧州のクラブが続出したが、ペルージャが移籍金を釣り上げたため契約には至らなかった。 |
| この時点で最も獲得に熱心だったクラブはリーグ・アンのASモナコといわれる『セリエAに挑んだ男たち』80頁。 |
| シーズン途中に1600万ドルで名門ASローマへ移籍。 |
| これは監督だったファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされるカペッロは中田獲得を決めた理由をこう述べている。 |
| 「中田の獲得を決めたのは私だ。 |
| 以前から気に入っていたが、9月26日にペルージャと戦った時のプレーを見て、それは確信に変わった。 |
| TV解説者の立場から各チームを見ていた昨シーズンから、中田の動向は注意深く追い続けていた。 |
| そして、ペルージャ戦での生のプレーを見て、その円環が閉じたというわけだ。 |
| それで私はセンシ会長に獲得を要請し、クラブもそれに応えてくれた。 |
| 私は、優秀なプレーヤーは新しい環境にすぐ適応するものだと考えている。 |
| 中田もその一人だ。 |
| 彼のポジションについては、すでにひとつのアイデアを持っているが、それが実際に機能するかどうかは、少なくとも10日間は時間をもらわなければならない」(『セリエAに挑んだ男たち』93頁)。 |
| 当初は中盤の底で起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場した。 |
| しかし、生粋のローマ育ちでチームの象徴的存在だったトッティが復帰すると再び中盤の底で起用され、シーズン半ばから途中出場が多くなり、トッティの交代要員となっていった。 |
| 当時の外国籍選手の扱いについての規定もあり、久しく出場できない状態が続いたこの時の外国籍選手登用規定は、後に変更された。 |
| 2000-2001シーズン終盤の第29節ユヴェントス戦での、途中出場ながら引き分けに持ち込むゴールをたたき出した活躍は、ロマニスタに称えられ、語り草となっている。 |
| パルマ移籍以降も、ローマのホームスタジアムであるオリンピコにおいては、中田をコールする前に「SHOGUN(将軍)」のキャッチフレーズがつけられていた。 |
| 日刊スポーツ2002年4月15日より引用―。 |
| サポーターからは大歓迎を受け、気合も違った。 |
| 試合前の先発紹介では敵地ながら「昨年までローマの一員でスクデット獲得に貢献した中田!」とアナウンスされた。 |
| スタンドには「チャオ ヒデ イタリアの王者、ローマは君のことを忘れない」の横断幕も掲げられていた。 |
| ASローマはこの試合をきっかけに、一時は遠ざかりかけたスクデットを再び手繰り寄せていった。 |
| コンフェデレーションズカップでは、セリエAの首位を走っていたASローマと日本代表監督フィリップ・トルシエとの間で、中田の招集を巡って軋轢が起こった。 |
| 「グループリーグ3試合のみ」という条件で日本に帰国して戦ったが、日本代表がグループリーグを突破すると、トルシエは中田に準決勝以降も出場するよう要請した。 |
| 日本サッカー協会とASローマとの話し合いの結果、準決勝まで参加を延長し、その後イタリアに戻ることになった。 |
| 中田自身も「日本人初のセリエA優勝」の瞬間に立ち会うことを望んでいた週刊サッカーマガジン2008年5月20日号。 |
| 準決勝では豪雨の中、強いグラウンダー(ゴロ)のフリーキックで直接ゴールをあげhttp://www.asahi-net.or.jp/~MU2M-MSJM/stadium/daily/010607.html、このゴールが決勝点となって日本をフル代表初の国際大会決勝に導き、チームを離れた。 |
| セリエAでは90年代からACミランとユベントスの2強がスクデットを独占していたが、ASローマが18シーズンぶりにスクデットを獲得、日本人で初めてセリエA優勝メンバーとなった。 |