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プロフィール
- 中畑清とは
- 少年期から現役時代
- 引退後
- 国政選挙への挑戦
- プレースタイル
- 人物像・エピソード
- 年度別打撃成績
- 表彰
- 記録
- 背番号
- テレビ・ラジオ出演
- 歌
- CM
- ゲーム
- 参考文献
- 関連項目
- 関連サイト
中畑清(なかはたきよし、1954年1月6日-)は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手(内野手)。愛称は「 ヤッターマン」、「絶好調男」。現在は日本テレビ野球解説者及びスポーツニッポン新聞社専属評論家。
少年期から現役時代
| 酪農を営む家に生まれ、子どもの頃から毎朝の乳搾りと野球の練習は欠かさなかったという。 |
| テレビで見た長嶋茂雄にあこがれ、進学した安積商業高校でも野球部に入部し三塁手、遊撃手、捕手を務める。 |
| 駒澤大学では偏光サングラスと一本足打法で注目を浴び、2年の春には東都大学リーグで首位打者争いをする。 |
| リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。 |
| 1973年秋季リーグ最高殊勲選手。 |
| 2度の全日本入り。 |
| 大学時代は殆どがデーゲームの為、常時ではないが黒いサングラスがトレードマークで、当時はサングラスを着用する選手もプロ・アマ問わず珍しく、スポーツ用のゴーグルも無かった時代で珍しかった。 |
| 『駒澤三羽ガラス』(『駒大トリオ』)と呼ばれた平田薫、二宮至とともにのドラフトの目玉となる。 |
| 巨人からの1位指名が有力視され駒澤大学の合宿所に報道陣が殺到したが、銚子商業の篠塚利夫が1位指名された。 |
| 報道陣が帰って行くのを見て中畑は別室で将棋をしていたが3位指名されたと聞き慌てて戻った。 |
| 「高卒の人間に先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。 |
| 中畑は拓殖銀行への就職が内定していたが、当時監督だった長嶋の存在などが後押しとなりプロ入りを決意。 |
| 指名されなかった平田と二宮も一緒なら入団すると申し入れ、巨人もこれを受け入れた。 |
| 入団後3年間は1軍での出番に恵まれなかったが、3年目オフのに開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で高田繁に代わって途中出場し、レッズのクローザーのマリオ・ソトから2ランホームランを放った。 |
| この日はコンタクトレンズをなくして何も見えない状態だったが、妻が後楽園球場まで届けた新品のおかげでよく見えるようになったという。 |
| 引退後の番組で「この日、後楽園から妻に電話してコンタクトレンズを買って届けてもらって装着したら視界が別世界だった」と語っている。 |
| -->日米野球での活躍がきっかけとなり1軍に定着した、三塁手の高田が怪我で離脱した際に起用され、高田の復帰後もレギュラーとして登用された。 |
| この年新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折、新人王はならなかった。 |
| 初の規定打席に到達した翌の秋、監督の長嶋茂雄が辞任し王貞治も引退する。 |
| そしてドラフト会議で中畑と同じ三塁のポジションの原辰徳が入団。 |
| ここでポジションの問題が発生するが、新監督の藤田元司ら首脳陣は当初中畑三塁・原二塁の構想を持っていた(ちなみに遊撃手は元々レギュラーである河埜和正、そして一塁には以前から王の後継と目されていた山本功児)。 |
| しかしになると中畑がシーズン途中怪我で戦線離脱し、その間に原が三塁へ、二塁に篠塚利夫が入り、高打率を記録した(その間一塁には長年大洋の顔として2000本安打を記録をし、巨人にこの年移籍となった松原誠が守った)。 |
| そして中畑は戦線復帰すると一塁手に転向。 |
| 中畑の怪我のおかげでポジション問題が解決されたと評された。 |
| この年巨人は1973年以来の日本一を奪回し中畑も.322、16本塁打66打点と活躍した。 |
| 1989年に三塁再コンバートが試みられたが、甲子園球場での試合中に牽制球で一塁に戻った際指を痛め、引退を表明。 |
| リーグ優勝を決める試合(横浜スタジアム)で二塁打を放った際のことを「自分が日本の球場で最初にウェーブを起こした」と発言している。 |
| 同年に行われた近鉄との日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)では篠塚の進言で代打に起用され、吉井理人から本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)。 |
| この試合を最後に、現役を引退した。 |
引退後
| 引退後は日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者を経て、から第二期長嶋監督の巨人で打撃コーチに就任。 |
| 1993年はチームがリーグ最低打率に終わり、駒田徳広の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執が噂された事もありコーチとしての評価は高くないまま終わった。 |
| それでもには一塁ベースコーチを担当し、ムードメーカーの役割に徹して日本一に貢献した。 |
| その後は再び日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者として現在に至る。 |
| 2004年のアテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチ監督の長嶋茂雄が病床に伏してからはチームの指揮を執る。 |
| 監督代行ではなくあくまでヘッドコーチであり、講演活動で監督代行の肩書きが欲しかったと発言しているを務め、本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋監督の登録が認められなかったため監督に就任、銅メダルを獲得。 |
| 同オフ、巨人から非公式に助監督を要請されたが、これを断っている。 |
| 現在、上総モナークカントリークラブのアドバイザーを務める。 |
国政選挙への挑戦
| 2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行予定の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ、5月11日に中畑自身が立ち上がれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席し、正式に出馬表明記者会見を行った |
| 7月11日の当開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも1人しか当選しなかったため落選。 |
プレースタイル
| レギュラー時代は主に6番・7番打者をつとめ、積極的な打撃で中軸打者をホームへ帰した。 |
| 典型的な早打ちスタイルの中距離打者だったが、原が4番に定着する過渡期の1984年には自己最高の31本塁打を記録している。 |
| 「絶好調!」が口癖のムードメーカーで、その明るい性格からファンに人気があり、ヤッターマンの愛称で親しまれた。 |
| 守備も巧みであり、一塁手で1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。 |
| その頃、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられた。 |
| ただし、実際に守備については下手だったわけではなく、「性格的に三塁手向きのためか、本来二塁手の守備範囲の打球にまで突っ込む判断力の悪さがあるが、それを除けば、ゴロをとる技術に関しては一塁手としては(現役当時で)一番上手い」という評価すらあった。 |
| 藤田監督は中畑がサード向き、原はファースト向きの性格でありながら原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だったと語っている |
人物像・エピソード
| 巨人の45代目4番打者 |
| まだ若くあまり注目もされていなかった頃、当時の長嶋茂雄監督から「清、調子はどうだ?」と聞かれた際、「えぇ、まあまあです」と答えた。 |
| これを聞いていた土井正三コーチに「監督に調子を聞かれたら嘘でもいいから必ず絶好調と答えろ」と言われて(板東英二曰く、「何を聞かれても」)「絶好調!」と答えるようになった。 |
| この当時「オレは多摩川のハナクソだよ」と自嘲していたという。 |
| 新人の頃に広島東洋カープの抑えだった江夏豊と対戦。 |
| 中畑曰く、江夏はマウンドに上ると新しいボールを毛嫌いし、毎回ボールに土をすりこんでいたという。 |
| そこで、当時打撃コーチであった国松彰から「ボールを替えてもらえ」との指示が中畑に飛んだ。 |
| 中畑は渋々、ボールを1球投げたところでボールの交換を要求した。 |
| 捕手も嫌々ながら新しいボールと交換して江夏にボールを渡した。 |
| すると江夏が中畑を凝視しながらマウンドから降り、中畑の手前2mほどまで近づいて、「おい若造、ボール替えてくれ?10年早いんや!!!」と凄まれ、思わず「すいません!」と謝ったという。 |
| 中畑はこの打席で頭の高さほどのボール球を振って三振し、即2軍落ちになった。 |
| この後の江夏との対戦はまったく打てなかったという。 |
| 1989年の日本シリーズ第7戦には夫人が観戦しに来ており、夫人が見ている中で現役最後の本塁打を放った。 |
| 中畑の後の背番号24を引き継いだ大森剛が守備も一塁であったため、コーチ時代は試合前等について教える姿が見られた。 |
| プレーについて、「高い入場料を払ってきてくれるファンのために」と発言した。 |
| 現役当時に巷で流行だったもみ上げをまっすぐにカットするテクノカット(YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に代表される)を中畑もやっていた。 |
| TOKIOの松岡昌宏が中畑の大ファンであり、それを知った時には家族で大喜びしたと言う。 |
| 演歌を大変好み、テレビ番組のカラオケ大会ではよく山本譲二や北島三郎などの曲を歌う。 |
| また吉幾三の作詞作曲の『十和田丸』でデビューし演歌のシングルを2枚リリースしている。 |
| 度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝、落合博満、真弓明信、吹石徳一など)による親睦会「二八会」(にっぱちかい)の会長を務めている |
| 毎年、福岡県北九州市の九州ゴルフクラブにて、「元気だぜ!」というタイトルのプロアマゴルフコンペを行っている。 |
表彰
| ゴールデングラブ賞:7回(1982年-1988年)。 |
| 日本シリーズ優秀選手賞:1回(1983年)。 |
記録
| オールスターゲーム出場:6回(1981年-1985年、1988年)。 |
| 1000試合出場:1987年5月26日(270人目)。 |
背番号
| 24(1977年-1989年)。 |
| 72(1993年-1994年)。 |
テレビ・ラジオ出演
| スポんちゅ-司会。 |
| 中畑清の世の中なんでもクエスチョン?(2006年、ラジオ日本)。 |
| キスの温度 いちばん近い他人(1990年、パナソニックスペシャル・日本テレビ)-主人公の上司。 |
| メジャーリーグ(映画)・日本テレビ-ヤンキースの打者ヘイウッドの声。 |
歌
| 十和田丸(1984年、バップ、VAP10170-07) 作詞作曲は吉幾三。 |
| b/w「酒、夜、時々…雨」。 |
| 港(1988年2月11日、バップ、VAP10290-07) b/w「十和田丸」。 |
| ときめいて乾杯(1995年、ポニーキャニオン) 真木ことみとのデュエット。 |
| 真木ことみのアルバム『演歌三昧』に初収録。 |
CM
| 千代田生命(1992年)。 |
| 田辺製薬アスパラドリンク(1997年)。 |
| セガプレイステーション2用ゲームソフト「プロ野球チームをつくろう!3」(2005年)。 |
| アミールS(2008年-)。 |
| 城南建設住宅情報館。 |
| ナムコ 「ワールドスタジアム3」。 |
参考文献
| 『巨人の魂 ジャイアンツOBからの提言』長谷川晶一 東京ニュース通信社 2006年。 |
関連項目
| 福島県出身の人物一覧。 |
| 読売ジャイアンツの選手一覧。 |
| 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧。 |
| 太田誠-駒澤大学硬式野球部元監督。 |
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1954年
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中畑 清(なかはた きよし)は、福島県西白河... |
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1984年
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自己最高の31本塁打を記録している |
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