| 宇治高等学校時代からレスリングを始める。 |
| 専修大学に進学し、大学卒業後は和歌山県庁勤務を経て新日本プロレスのレスリング部門闘魂倶楽部に入門。 |
| 全日本レスリング選手権大会フリースタイルで1989年から4連覇を達成。 |
| 1992年のバルセロナオリンピックフリースタイル100kg級に出場し、2回戦敗退となった。 |
| 1992年、藤波辰爾のタッグパートナーという大抜擢を受け、新日本プロレスからプロデビュー。 |
| デビュー後しばらくはレスリング用のヘッドギアを着用していた。 |
| 1995年3月、第6回ヤングライオン杯にて優勝。 |
| 同年6月より米国武者修行へ旅立つ。 |
| 若手時代は特にマサ斎藤にかわいがられ、修行先のWCWでは「世界に通用する男だから世界に通用するリングネームを使え」と、マサに命名された「クロサワ」の名で活躍した。 |
| 1996年9月に凱旋帰国。 |
| 1997年には小島聡と組んで第31代IWGPタッグ王座に就く。 |
| 1999年にはG1CLIMAXで初優勝。 |
| 同年、永田裕志と組んで第39代IWGPタッグ王座にも就いた。 |
| 2000年3月28日、永田・ブライアン・ジョンストン・吉江豊・福田雅一と格闘ユニット「G-EGGS」を結成。 |
| 本隊内の独立した軍団として、蝶野正洋率いるヒールチーム「TEAM 2000」と抗争を展開。 |
| この頃、「P-4M」というメッセージを発信。 |
| 「問題(Problem)」に「耐える(Putup)」事により「願いが叶う(Possible)」事を「約束される(Promise)」という4つのPからなるもので、これを意味する手のポーズも有る。 |
| 2003年6月29日、FEG主催の「K-1BEASTII」でK-1ルールに初挑戦。 |
| 同じくK-1初参戦であり、アマチュア相撲出身のTOAと対戦するが、1R右フックでKO負け。 |
| 試合後の会見で前日の練習中に脚に怪我を負っていたことを告白した。 |
| 2004年、「シングルをやるために」と本隊を離脱し反体制派へ。 |
| 一匹狼となり、海賊(パイレーツ)を名乗って暴れる。 |
| 短期間ながらウルティモ・ドラゴンとタッグ結成。 |
| その後は蝶野のチームに合流し、ニュー・ジュラシックパワーズとしてスコット・ノートンともコンビを組む。 |
| 短期間で、野人→海賊→ソルジャーへとギミックチェンジを繰り返した。 |
| 2005年からは、同じくレスリング出身であり犬猿の仲である永田、ケンドー・カシン、藤田和之と「チーム・ジャパン(TJ軍)」を結成。 |
| 翌年の新日本のユークス子会社化に伴う猪木事務所との提携解消による藤田の離脱まで活動する。 |
| 2006年5月31日、ZERO1-MAXでのタッグマッチで大森隆男との試合後、大森の実力を認め握手を求めた。 |
| 大森も中西を認め握手を交わしタッグチームを結成した。 |
| 6月24日のディファ有明大会でNWAインターコンチネンタルタッグ選手権に挑戦。 |
| 合体技「ワシントン条約」で勝利、初タッグ結成でいきなり王者となり、2戦目の7月17日札幌月寒大会ではIWGPタッグ王座(暫定王座)も奪取した。 |
| 9月20日付けで、蝶野&天山組の持つ第48代IWGPタッグ王座は剥奪され、同日付けで正式に第49代IWGPタッグ王者となった。 |
| チーム名を「ワイルドチャイルド」とした。 |
| しかし、2008年1月1日、ZERO1-MAXの後楽園大会で大森とリング上で大喧嘩し、タッグを解消した。 |
| 2009年4月5日、大森のリング復帰を機会に大森と再共闘。 |
| 2009年5月6日、後楽園ホールにおいてIWGPヘビー級王座に挑戦し、棚橋弘至を破り第51代王者となった。 |
| これまであと一歩のところで手が届かなかったベルトに、6度目の挑戦で悲願の初戴冠。 |
| 実況席で解説の「鬼軍曹」山本小鉄も、人目を憚ることなく涙を流した。 |
| 2009年6月20日、初防衛戦で棚橋とのリマッチに敗れ、王座を明け渡した。 |
| 2010年10月に開幕したG1TAGLEAGUEにストロングマンとのタッグチームマッスルオーケストラで出場。 |
| Aブロック2位となるも、準決勝で敗退。 |
| 同年のプロレス大賞で最優秀タッグチーム賞をストロングマンと受賞した。 |
| 2011年1月4日、レッスルキングダムVIN東京ドームでストロングマンとのタッグでIWGPタッグのベルトに挑戦するも、獲得ならず。 |
| 2011年6月4日、タッグマッチにて試合中、井上亘選手の放ったジャーマンスープレックスを受け首を負傷。 |
| 病院へ搬送後、頸椎損傷と診断された。 |
| 手のしびれを訴え、全治までの期間は不明。 |
| 翌7日に後藤洋央紀とタッグを組んで棚橋弘至・天山広吉と対戦する予定だったが、本間朋晃が代理出場することになった。 |