| ジャーナリスト・丸山幹治の次男として、大阪府に生まれた。 |
| 兄に芸能プロデューサー・音楽評論家の丸山鉄雄がいる。 |
| 1921年には東京四谷に転居。 |
| 父の友人・長谷川如是閑らの影響を受け、大正デモクラシーの潮流のなかで思想形成をおこなう。 |
| 四谷第一小学校、府立一中(現・都立日比谷高校)を経て、旧制一高に進学。 |
| 1933年、一高の三年生時には長谷川を弁士とする唯物論研究会の講演に赴いたために警察に検挙され、特別高等警察の取調べを受けた。 |
| 1934年に一高を卒業後、東京帝国大学法学部入学。 |
| 「講座派」の思想に影響を受ける。 |
| 在学中に懸賞論文のために執筆した論文「政治学に於ける国家の概念『戦中と戦後の間』所収、みすず書房」が認められて助手となる。 |
| 本来はヨーロッパ政治思想史を研究したかったが、日本政治思想史の研究を開始した。 |
| 当時、日本政治思想史といえば皇国史観に基づくものが多かったが、丸山は学問としての社会科学的な視点から研究しようと志した。 |
| 日本政治思想史研究を薦めたのは指導教授である南原繁だった。 |
| 南原は皇国史観に対して批判的であったが、自身がヨーロッパ思想史研究者であり、皇国史観に反論をしうる学問的素地を持たなかったことから、丸山に後事を託したとされている。 |
| 1944年、30歳の時に、東京帝国大学法学部助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。 |
| 大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。 |
| その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。 |
| 4ヶ月後の1945年3月に再召集を受け、広島市宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。 |
| 8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。 |
| 1945年8月15日に終戦を迎え、9月に復員した苅部直『丸山眞男――リベラリストの肖像』岩波新書、107-108頁、111-112頁。 |
| 「上官の意向をうかがう軍隊生活は(大奥の)『御殿女中』のようだった」と座談会で述べたことがある。 |
| この経験が、戦後、「自立した個人」を目指す丸山の思想を生んだ小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』新曜社、P.55。 |
| 戦後大学に戻り、1946年、「世界」5月号に「超国家主義の論理と心理『現代政治の思想と行動』所収、未來社」を発表。 |
| 戦前日本の軍国主義やファシズムに関する一連の論考は、論壇のみならず広く敗戦後の日本人に衝撃を与えた。 |
| 以後、戦後民主主義思想の展開において、指導的役割を果たす。 |
| 戦前の天皇制を「無責任の体系」という言葉で表現したことは有名。 |
| サンフランシスコ平和条約をめぐる論争では「平和問題談話会」の中心人物として、1960年の安保闘争を支持する知識人として、アカデミズムの領域を越えて戦後民主主義のオピニオンリーダーとして発言を行い、大きな影響を与えた。 |
| アカデミズムとジャーナリズムを架橋したとも評されたが、後年、本人は現実政治の分析を「夜店」、日本政治思想史の研究を「本店」と称したこともある。 |
| 1950年より東京大学法学部教授。 |
| 1960年代後半になると逆に、欺瞞に満ちた戦後民主主義の象徴として全共闘の学生などから激しく糾弾された。 |
| 心労と病気が重なったことで、1971年に東大を早期退職した。 |
| 1974年に東京大学名誉教授。 |
| 1978年には日本学士院会員となる。 |
| 肝炎などの持病と闘いつつ「丸山真男集」を刊行中の1996年8月15日(終戦の日)に死去。 |
| 家族のみで密葬を行い、約1週間後に死去が公表された。 |
| 8月26日に新宿区信濃町の千日谷会堂で「偲ぶ会」が行われた。 |