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雍正帝
父
清の第5代皇帝(在位1722年12月27日-1735年10月8日)。諱は胤禛(いんしん(禛の字は示眞))、廟号は世宗、謚号は憲皇帝。在世時の元号を取って雍正帝と呼ば... |
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康熙帝
祖父
清の第4代皇帝(在位1661年2月5日-1722年12月20日)。諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁... |
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西太后
清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺... |
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中野美代子
中国文学者、作家。北海道札幌市生まれ。1956年北海道大学中国文学科卒業、同助手。65年オーストラリア国立大学高等学術研究所助手、67年退職、68年、香港、... |
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嘉慶帝
中国清の第7代皇帝(在位:1796年2月9日-1820年9月2日)。諱ははじめ永琰(えいえん)、即位後に顒琰(ぎょうえん)と改めた。廟号は仁宗(じんそう)。在世... |
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ジュゼッペ・カスティリオーネ
イタリア生まれのイエズス会の宣教師である。中国名は郎世寧(LángShìníng)。ミラノに生まれる。1709年にイエズス会の会士となり、1715年には清朝時代の中国へ... |
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順治帝
中国清王朝の第3代皇帝(在位1643年10月8日-1661年2月5日)。姓名は愛新覚羅福臨(アイシンギョロ・フリン)、廟号は世祖。在世時の元号順治を取って順治帝と... |
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蓮教
戦国時代の浄土真宗の僧。興正寺第14世(『真宗法脈史』)。初名は経豪(きょうごう)。号は花恩院。諡号は願乗院。父は佛光寺12世性善で、甘露寺親長の猶子... |
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満州人
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光緒帝
光緒帝(こうしょてい、こうちょてい、同治10年6月28日(1871年8月14日)-光緒34年10月21日(1908年11月14日)、在位:1875年2月25日-1908年11月14日)は中国... |
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呉越
中国の俳優。中国には同姓同名の男優と女優が存在するが、この項目では男優の呉越について述べる。 |
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ヌルハチ
中国後金の創始者(在位:1616年2月17日-1626年9月30日)。清の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン、モンゴル語でクンドゥレン・... |
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咸豊帝
咸豊帝(かんぽうてい、道光11年6月9日(1831年7月17日)–咸豊11年7月17日(1861年8月22日)、在位:1850年3月9日-1861年8月22日)は中国清朝の第9代皇帝。諱... |
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珠姫
安土桃山時代から江戸時代初期の女性。前田利常の正室。徳川秀忠と継室江の次女で、徳川家康の内孫。姉に千姫(豊臣秀頼正室、本多忠刻正室)、妹に勝姫(松... |
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鄭成功
鄭成功(ていせいこう、チェンチェンコン、、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日)-大明永暦十六年5月8日(1662年6月23日))は中国明代の軍人、政... |
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道光帝
道光帝(どうこうてい、乾隆47年8月10日(1782年9月16日)-道光30年1月14日(1850年2月25日)在位:1820年10月3日-1850年2月25日)は中国清朝の第8代皇帝。諱... |
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袁世凱
袁世凱(えんせいがい、1859年9月16日(咸豊9年8月20日)-1916年6月6日)は中国清末民初期の軍人・政治家。大清帝国第2代内閣総理大臣、中華民国臨時大総統、... |
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同治帝
清国の軍閥化が進行してきた証左であると言える。西太后に信任された李鴻章により、政治と軍隊の洋化が進められ、対外政策にも柔軟な対応を見せた(洋務運動... |
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蘇軾
蘇軾(そしょく、景祐3年12月19日(1036年1月8日)-建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))は中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東... |
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世祖
世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日)-成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日-1468年9月7日)は李氏朝鮮の第7代国王。... |
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プロフィール
- 乾隆帝とは
- 経歴
- 后妃
- 日本語文献
- 登場作品
- 関連項目
乾隆帝(けんりゅうてい、康熙50年8月13日(1711年9月25日)-嘉慶4年1月3日(1799年2月7日))は、清の第6代皇帝(在位1735年10月8日-1796年2月9日)。諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。
経歴
| left|thumb|乾隆帝。 |
| left|thumb|乾隆帝。 |
| 雍正帝の第4子として生まれる。 |
| 祖父康熙帝に幼い頃から賢明を愛され、生まれついての皇帝になる人物と目されており、太子密建を経て即位。 |
| 生まれついての皇帝であったため、乾隆帝は祖父、父とは違い派手好みの性格であった。 |
| 乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが「十全武功」(じゅうぜんぶこう)と呼ばれる10回の外征である。 |
| ジュンガル、金川、グルカに2回ずつ、回部、台湾、ビルマ、安南に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自分を十全老人と呼んだ。 |
| これにより清の版図は最大規模に広がり、また、ビルマ増井 |
| 、ベトナム増井 |
| 、ラオス、タイまで朝貢するようになった。 |
| 国内政治においては、雍正帝の時代に置かれた軍機処が、恒常的な政務機関となっていった。 |
| 康熙・雍正期の繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。 |
| また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『四庫全書』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。 |
| この時期には文化が大いに振興し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くの漢詩を作った。 |
| 乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在も故宮博物院に残る多くのコレクション『故宮博物院15乾隆帝のコレクション』(日本放送出版協会、1999年)NHKスペシャルで紹介放映され、書籍化。 |
| を収集し、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。 |
| これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。 |
| 自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。 |
| その一方で退廃の芽生えがあった。 |
| 十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、西域では酷い苦戦もあり、越南など実質的には負けの遠征もあった。 |
| また、苗族の反乱や白蓮教徒の反乱などが起こった。 |
| さらにこの時期に中国におけるイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことでのちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。 |
| 1793年、イギリスの使節としてマカートニーが入朝したのは乾隆帝の時代であるが、三跪九叩頭の礼は免除したものの貿易摩擦に関するイギリスの要求は退けている。 |
| また、文字の獄と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、禁書も厳しく実施した。 |
| 父雍正帝の時代に命を許された曾静も「父は自分を批判されたものだから許したが、自分にとっては父を批判した者だから許せない」という口実で処刑している。 |
| 1795年、治世60年に達した乾隆帝は祖父康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で引退し太上皇となり、実権を手放さず、清寧宮で院政を敷いた。 |
| 乾隆帝は和という奸臣を、引き続いて重用していた。 |
| 和は嘉慶帝と他の臣たち全てに憎まれていたのだが、乾隆帝が生きている間はどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。 |
| 晩年の乾隆帝は王朝に老害を撒き散らした。 |
| 和は乾隆帝の死後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分寺田隆信『紫禁城史話中国皇帝政治の桧舞台』(中公新書、1999年)にも詳しい。 |
| に達したという。 |
| 陵墓は清東陵内の裕陵。 |
| だが、中華民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き(東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。 |
| これは溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近への布石にもなった。 |
后妃
| 孝賢純皇后(富察氏)子女:皇長女(夭逝)、皇三女固倫和敬公主、皇二子端慧皇太子永璉(夭逝)、皇七子哲親王永琮(夭逝)。 |
| 継皇后烏拉那喇氏:勝手に出家したとして皇后を廃され、葬儀は皇貴妃の格式で執り行われ、諡号もつけられていない。 |
| 子女:皇十二子貝勒永璂(王へんに基、読みはえいき)、皇五女(夭逝)、皇十三子永璟(夭逝)。 |
| 孝儀純皇后(魏佳氏)子女:皇七女固倫和静公主、皇十四子永。 |
| 慧賢皇貴妃(高佳氏)。 |
| 純恵皇貴妃(蘇氏)皇三子循郡王永璋、皇六子質親王永瑢、皇四女和碩和嘉公主、。 |
| 慶恭皇貴妃(陸氏)。 |
| 哲憫皇貴妃(富察氏)子女:皇長子定親王永、皇二女(夭逝)。 |
| 淑嘉皇貴妃(金佳氏)子女:皇四子履親王永、。 |
| 婉貴妃(陳氏)。 |
| 穎貴妃(巴林氏)。 |
| 忻貴妃(戴佳氏)子女:皇六女(夭逝)、皇八女(夭逝)。 |
| 愉貴妃(珂里葉特氏)子女:栄親王永琪。 |
| 循貴妃(伊爾根覚羅氏)。 |
| 晋妃(富察氏)。 |
| 容妃(和卓氏)ウイグル族。 |
| 香妃伝説のモデルになったとされる。 |
| 舒妃(葉赫那拉氏)子女:皇十子(夭逝)。 |
| 惇妃(汪氏)子女:皇十女固倫和孝公主 ほか。 |
日本語文献
| 中野美代子『乾隆帝その政治の図像学』文藝春秋(文春新書)、2007年、ISBN978-4-16-660567-5。 |
| 増井経夫『大清帝国』講談社学術文庫、2002年、ISBN4-06-159526-1。 |
| 増井経夫『中国の歴史7清帝国』(講談社、1974年)を、改題文庫化。 |
| 宮崎市定『中国文明の歴史9清帝国の繁栄』中央公論新社(中公文庫)、2000年、ISBN4-12-203737-9。 |
| 『東洋の歴史9清帝国の繁栄』(人物往来社、1967年)を、改題文庫化。 |
| 「宮崎市定全集13明清」(岩波書店、1993年)にも所収。 |
| 矢沢利彦訳注『イエズス会士中国書簡集3乾隆編』平凡社東洋文庫。 |
| ジョージ・マカートニー、坂野正高訳注『中国訪問使節日記』平凡社東洋文庫。 |
| 石橋崇雄『大清帝国』講談社選書メチエ、2000年。 |
| 矢沢利彦『西洋人の見た中国皇帝』東方書店、1992年。 |
| 杉村勇造『乾隆皇帝』二玄社、1961年、絶版。 |
| 後藤末雄『乾隆帝伝』生活社、1942年、絶版。 |
| 根岸鎮衛『耳嚢』長谷川強校注、全3巻岩波文庫、初版1991年。 |
| 江戸時代の随筆。 |
| 乾隆帝についての逸話を収録。 |
登場作品
| 書劍恩仇録(金庸)。 |
| 蒼穹の昴(浅田次郎)。 |
| 清朝皇帝(ビデオ題:風と興亡)第1部紅花党の反乱/第2部シルクロードの王女・香妃(1987年、香港・中国)。 |
| 乾隆與香妃(2004年、中国、演:ジョン・ローン)。 |
関連項目
| 避暑山荘-承徳市にある夏期の別荘宮殿。 |
| 外八廟-同市にあり、世界遺産。 |
| zh-classical:清高宗。 |
| zh-yue:乾隆帝。 |
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1793年
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イギリスの使節としてマカートニーが入朝した... |
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1795年
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治世60年に達した乾隆帝は祖父康熙帝の治世61... |
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