| 貞和2年/正平元年(1346年)2月29日、良基は27歳の若さで光明天皇の関白・藤氏長者に任命され、2年後の崇光天皇への譲位後も引き続き在任した。 |
| 同時に治天の君であった光厳上皇の院評定の一員であり、朝儀・公事の復興に積極的に努めたが、摂関家における正統な有職故実を継承すると自負する良基の自説のこだわりは強く、崇光天皇の即位式の次第を巡って光厳上皇や洞院公賢らと衝突し、公賢からは良基の故実学は「偏執」であると難じられた(『園太暦』別記)木藤、1987年、P39-44・小川、2005年、P29-36。 |
| だが、足利氏の内部抗争から観応の擾乱が起こり、観応2年/正平6年(1351年)に足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、11月7日に北朝天皇や年号が廃止され、良基も関白職を停止される。 |
| 更に光明・崇光両天皇期の任官を全て無効とされて、良基は後醍醐天皇時代の従二位権大納言に戻される一方、公賢は改めて左大臣一上に任命された。 |
| 南朝では既に二条師基が関白に任じられており、良基の立場は危機に立たされた。 |
| 良基は心労によって病に倒れたが、それでも御子左流の五条為嗣とともに南朝の後村上天皇に拝謁を計画する(『園太暦』正平7年2月26日条)など、当初は南朝政権下での生き残りを視野に入れた行動も示した木藤、1987年、P44・小川、2005年、P37-39。 |
| ところが、正平7年(北朝としては「観応3年」、1352年)に、京都を占領した南朝軍が崇光天皇・光厳・光明両上皇、皇太子直仁親王を京都から連行すると、足利義詮は和議を破棄、同時に公賢が構想していた直仁親王を後村上天皇の皇太子にすることで両統迭立を復活させる和平構想(『園太暦』観応2年12月15日・17日条)も破綻した。 |
| そのため、義詮は光厳上皇の母広義門院の命によって、新たに崇光の弟弥仁王(後光厳天皇)を擁立する構想を打ちたて、そのために良基を関白に復職させようとする。 |
| 足利将軍家の意向と勧修寺経顕の説得を受ける形で、6月25日に良基は広義門院から関白「還補」の命を受け、2日後に昨年の南朝側による人事を無効として崇光天皇在位中の官位を戻した。 |
| なお、前年11月7日から6月25日までの期間に南朝側によって行われた良基に対する措置を有効として関白解官→前関白の関白還補(再任)とみる(この場合、南朝の師基が同期間の関白として扱われる)か、これを無効として職権遂行が不可能な状況下で関白在任が継続されたとみるかによって良基の通算在任回数の数え方(計5度か計4度か)が変わることになる。 |
| 良基は勧修寺経顕や松殿忠嗣ら側近とともに北朝の再建に尽力する。 |
| だが、朝廷では三種の神器のない天皇の即位に対して異論が噴出した。 |
| その際、良基は「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。 |
| 何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったとされる(『続本朝通鑑』)。 |
| この過程で和平構想に失敗した公賢とその縁戚である一条経通・鷹司師平らの政治力は失墜し、政務は年若い新帝や政治経験の無い広義門院を補佐する形式で良基とその側近達が運営していくことになる木藤、1987年、P44-48・小川、2005年、P39-43。 |
| だが、翌文和2年/正平8年(1353年)には、南朝側の反撃によって京都陥落の危機が迫ると、足利義詮は後光厳天皇を良基の押小路烏丸殿に退避させ、そのまま天皇を連れて延暦寺を経由した後美濃国の土岐頼康の元に退去していった。 |
| 良基は体調の悪化もあり、坂本から嵯峨中院の山荘に引き籠った。 |
| この間に押小路烏丸殿を占拠した南朝軍は良基を後光厳天皇擁立の張本人として断罪し、同邸に残された二条家伝来の家記文書は全て没収されて叔父師基の元に送られた(『園太暦』文和2年7月11日条)。 |
| ところが、そのような状況下で7月20日頃に良基は病身を押して後光厳天皇のいる美濃国小島へと旅立った。 |
| これについて、洞院公賢によれば最初に小島に駆けつけた摂関家を新しい関白にするという噂があることを記している(『園太暦』文和2年8月5日条)。 |
| もっとも、良基よりも先に駆けつけた近衛道嗣が関白に任じられることは無かったことから、事実とは異なるようである。 |
| 27日には先に小島にいた叔父の今小路良冬に迎えられた良基は翌日に天皇に拝謁した。 |
| 9月3日には垂井に移った天皇や良基を迎えに尊氏が到着し、10月21日に京都に復帰した(この行幸の際に書かれた仮名日記が『小島のすさみ』である)。 |
| 後光厳天皇は以後、良基と道嗣を重用するようになり、京都に留まっていた経通や公賢は二心を疑われていよいよ遠ざけられた。 |
| 文和3年/正平9年(1354年)暮にも南朝軍が京都を占領して、天皇や良基は近江国に退避したが、これは短期間に終わった。 |
| ただし、その前後からの戦闘で京都は食糧不足に陥っており、文和4年/正平10年(1355年)1月には関白以下の「困窮者」に対して足利将軍家の配慮で食糧が与えられる有様であった(『賢俊僧正日記』1月27日条)。 |
| だが、これ以後は南朝の攻勢も弱まり、やや落ち着いた時期を迎える康安元年(1361年)暮れから翌年初めにかけて、南朝軍が4度目の京都占領を行って、後光厳天皇は3度目の京都脱出(近江国)をしているが、直ちに撃退されて帰還している。 |
| これが南朝軍による最後の京都占領となる。 |
| なお、長男・師良の生母は家女房とされているが詳細は不明である。 |
| とし、また文和5年(延文元年/正平11年・1356年)には救済・佐々木道誉らとともに『莬玖波集』の編纂にあたり、同年3月25日付の良基の和文序が残されている。 |
| 同集は遅くても翌年春までに完成し、同年閏7月11日には准勅撰として認定された木藤、1987年、P48-63・小川、2005年、P43-48。 |
| ところが、延文2年/正平12年(1357年)に南朝に奔った元関白近衛経忠の子・実玄を一乗院門主から排除しようとして、北朝側の大乗院が引き起こした興福寺の内紛において、良基が藤氏長者として裁定にあたったが、その内容が経忠の系統を近衛家の嫡流として扱い(裏を返せば、経忠と対抗関係にある道嗣には摂関就任権がない)、かつ自分の猶子・良玄を実玄の後継者とする(以前より二条家を含む九条流摂関家が大乗院を、近衛流摂関家が一乗院を管轄する原則があったが、良基はその破棄を意図した)ものであったため、興福寺は勿論のこと、近衛道嗣や洞院公賢(道嗣の北政所は公賢の孫娘)、更に興福寺からの南朝勢力排除を望んで大乗院に同情する態度を示していた室町幕府の不満が高まった。 |
| そして実玄を支持する一乗院の衆徒が奈良市中で大乗院派に対する焼き討ちを行ったのを機に延文3年/正平13年(1358年)9月12日、次期将軍に内定していた足利義詮この年の4月に尊氏が死去し、義詮が事実上の将軍であった(12月に正式に将軍宣下)。 |
| ここに至って良基も窮地に陥り、11月14日に辞意を表明し、12月29日に正式に九条経教と交替した。 |
| (途中中断を含めて)関白就任から13年目のことであった木藤、1987年、P63-68・小川、2005年、P48-49・65-67。 |