| 東筑高校時代は投手として活躍したが、元々内野手で急造投手だった事をあるインタビューで明かしていた。 |
| 実は初めから西鉄ライオンズに決まっていたわけではなく、中日と南海から誘いをもらい、どちらかの球団とは契約寸前までいっていたのだが、地元の先輩から「地元の西鉄がいいよ」と進められた。 |
| (当時の本人の気持ちとしては不本意だった)ある日、三原脩監督と会う機会があり、そこで色々話をしていくうちに心配などが無くなり入団を決めたという。 |
| 1955年5月22日、松江でのトンボユニオンズ戦で、1試合6安打のパ・リーグ記録を作り上げた。 |
| この記録は2003年7月27日に城島健司(福岡ダイエーホークス)に並ばれたものの、依然としてリーグ1位タイ記録である。 |
| ちなみにオリックス監督時代に大島公一が1試合に5安打を打った次の打席で代打を出して変えてしまったことがある。 |
| 1958年オフにセントルイス・カージナルスが来日した際、全日本チームのメンバーとして出場した豊田泰光が、当時カージナルスの二塁手であるドン・ブレイザーからグラブを貰った。 |
| 豊田が福岡に帰ってチームメイトにグラブを見せびらかすのを見て、仰木もしばらく手にとって眺めていたが、豊田が「もういいだろう。 |
| 選手時代は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていた三原監督から「仰木と豊田だけは遊びに制限をかけんといかん」とこぼされるほどだった。 |
| 西鉄の島原キャンプの休日に船で天草まで遊びに行ったものの、海が荒れてその日のうちに帰れず、翌日の昼過ぎにコッソリと帰ってきたら、三原監督からバントの練習だけをするように命令されたという。 |
| 監督になってからも、『ニュースステーション』出演時に小宮悦子アナウンサーを本気で口説いていたというエピソードもあるなど、現役時代と全く変わらない遊び人ぶりであった。 |
| 西本幸雄監督の辞任後、毎年のように近鉄の次期監督候補として名前が挙がりながら、結局18年もコーチを続けることになったのは、そういった仰木の私生活を球団首脳が不安視したからだと言われている。 |
| また監督時代には、スタッフミーティングで「門限を設定して、破った者から罰金を徴収してはどうか」と議論に上がった際、「そうなったら俺が一番困る」と真っ先に反対したとも言われている。 |
| 球界でもかなりの酒豪として知られ、西本監督時代の投手コーチだった杉浦忠とキャンプで相部屋になった時には、連日酒を酌み交わしながら野球談義を続け、最終日に2人で空き瓶の本数を数えたところキャンプの日数と同じだったという逸話が残っている。 |
| 酒豪が昂じてか、近鉄監督時代には札幌遠征の試合後チーム全員でサッポロビール園に食事に出かけた際、ポジション毎に選手をビールの一気飲みで競わせ、一番早く飲みきった人間を(大阪に戻った後の)次の試合のスタメンとしたこともある。 |
| これは周囲に一般客が多数いる中で行われたため(一気飲み競争の)目撃者も多く、中には試合後同様に食事に来ていた当時パ・リーグ審判の前川芳男らもいたため、前川は近くにいた金村義明を呼び止め「お前らのチームは何てアホなことをしてるのか」と語ったという『プロ野球ここだけの話』(フジテレビワンツーネクスト)第4回。 |
| 近鉄監督時代は、代打を告げたとき、試合状況が読めておらず用意ができていなかった選手を殴り、ベンチの壁まで吹っ飛ばしたこともある。 |
| オリックス監督時代のある日の試合、相手チームに大量リードを許している試合の終盤で、守備要員としてベンチに入ることが多かった野手に「おい、次の回守るぞ」と守備固めに入るよう伝えたところ、「えっ」という驚きの反応を見せられたことから(一般的に守備固めによる野手交代は自軍がリードしている場面で行われることが多く、大量ビハインドの場面でのこうした交代は非常に珍しい)、不機嫌そうに「もういい」と言い、翌日その野手に2軍降格を命じ、その年限りでの球団解雇に追い込んだことがある。 |
| 2006年に天理教青年会機関誌「大望」に寄稿された球団OBパンチ佐藤の文章より。 |
| オリックス監督時代の96年のオールスターゲームで監督を務めた際に、当時オリックスのイチローを投手として起用する采配をおこない話題となった。 |
| この時の打者は松井秀喜(当時:巨人)であったが、セ・リーグ監督の野村克也はこのことに抗議する意味で、代打に投手の高津臣吾(当時:ヤクルト)を送った(結果は内野ゴロ)。 |
| 当時の西武ライオンズは黄金期にあり、1982-98年の17シーズンでパ・リーグ優勝13回と他チームを圧倒していたが、残る4シーズンのうち1984年を除く3シーズンでは仰木が監督をしたチームが優勝している。 |
| 野茂英雄、長谷川滋利、イチロー、田口壮など、仰木が育てた選手にはメジャーリーグに挑戦した者が多い。 |
| イチローに至っては、キャンプ中の仰木に会うためだけにわざわざ宮古島まで出向いたほどで、その尊敬ぶりは崇拝に近いものであり、記者の質問に「僕の唯一人の師匠ですから」とまで答えている。 |
| 「土曜スペシャル」(テレビ東京系)で共演した時にパンチは「自分はあの時まだ現役続行出来ると思ったんですが」と語ったが、仰木は「お前を現役続行で使っても無理だった」と語った。 |
| 「イチロー」の名付け親と言われているが、登録名の変更のアイデアを進言した実質の名付け親は新井宏昌コーチであり、仰木はそれを承認しただけである。 |
| 自動車を運転しないため、球場へのアクセスは電車やタクシーを利用していた。 |
| 近鉄時代には、新大阪駅近くの自宅マンションから地下鉄御堂筋線と近鉄南大阪線を乗り継いで藤井寺駅まで通っており、電車内でファンに声を掛けられることも多かった。 |
| 近鉄時代最後の年となった1992年には、親会社である近鉄電車のダイヤ変更告知や、近鉄特急「アーバンライナー」のイメージキャラクターに起用された。 |
| 2001年10月5日、オリックス監督としての最後の試合(近鉄戦:グリーンスタジアム神戸)では、試合後オリックスの選手による胴上げに次いで、対戦相手である近鉄の選手たちからも胴上げをされた。 |
| 2005年6月4日の対広島戦で投手交代の是非をめぐって、44分の遅延行為により退場処分を受ける。 |
| その後、この2人のやりとりの口の動きを毎日放送のニュース番組「VOICE」が詳細に分析し、仰木が土山に、投球の判定について「コース、低いかな?」と尋ねた言葉を、土山が「投手、菊地原」と聞き違え、そこから「言ってもいない投手交代がコールされたとみられる」と報じた。 |
| 2005年7月16日の対ロッテ戦で、ランドール・サイモンのショートゴロの間に、谷佳知が本塁に突っ込み、アウトを宣告され、激昂した谷は球審の胸を突き飛ばし、そのまま掴みかからんばかりの勢いでつめより、仰木監督もベンチから飛び出し、猛抗議で暴言を吐いたとして、2005年シーズンで2度目の退場処分を受ける。 |
| 10.19のあった1988年の日本シリーズは西武が中日を4勝1敗で破っているが、その祝勝会で、清原和博がTVのインタビューに対して「これで近鉄に顔向けが出来る」と答えていることに「なんと男気のある選手なんだ」と非常に感激し、著書「燃えて勝つ」にもそのことを記している。 |
| 清川は仰木の下で1991年~1992年の2年間プレーした週刊ベースボール2009年3月2日号より。 |
| 清原は自分の最後のチームになったオリックスに誘ってくれた仰木のことを深く感謝しており、自分の引退試合セレモニーで「天国にいる仰木さん、自分に最後の活躍の場を与えてくれてありがとう!」と感謝の言葉を言っている。 |