| 天正7年(1579年)には仙道の戦国大名で三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。 |
| 天正9年(1581年)、隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。 |
| 天正12年(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。 |
| 父・輝宗は41歳の働き盛りであり、政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、輝宗の決意は固く、家督を譲り受けることになった。 |
| 小手森城主・大内定綱は二本松城主・二本松義継と手を組み、田村氏の支配から脱却し、政宗に対抗しようとした。 |
| 天正13年(1585年)、政宗は小手森城へ兵を進める。 |
| 討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清(小手森城の撫で切り)を行い、非道な一面を見せた。 |
| 豪族が殆ど親戚・縁戚同士という奥州では皆殺し戦術は前代未聞の大事件であり、近隣の戦国大名を恐怖に陥れた。 |
| これは、近隣諸国への見せしめである。 |
| しかし、一方で政宗は後年、戦略的見地から定綱を家臣の列に加えている。 |
| 大内定綱の没落を間近で見た二本松義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを畠山領として安堵されることになった。 |
| ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出た所を拉致される。 |
| 当時狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って二本松勢を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害したという。 |
| この事件については、輝宗が自分もろとも義継を撃てと命じたとの説や、政宗による父殺しの陰謀説など、諸説ある。 |
| その後、初七日法要を済ますと輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲し、二本松氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など3万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で死闘を演じた。 |
| 数の上では5分の1以下の戦力であった伊達軍は苦戦を強いられたが、重臣・鬼庭良直を殿軍として持ち堪え、敵の撤退により窮地を脱した(人取橋の戦い)。 |
| 政宗は更なる侵攻を行い、天正16年(1588年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う。 |
| 正妻・愛姫の実家・田村氏の協力を得て、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下に置く。 |
| 関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。 |
| しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。 |
| 同年、北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、及び味方であった黒川月舟斎の裏切りと大雪により敗北。 |
| これに乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻。 |
| また伯父・最上義光とも一触即発の事態となるが母・義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。 |
| 天正17年(1589年)には東北地方の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍と戦う。 |
| この戦いを摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)という。 |
| 蘆名氏はすでに関白、秀吉傘下の大名となっており、政宗が蘆名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していた。 |
| 蘆名義広は1万5000の兵を率い、政宗も2万1000を率いて磐梯山の中腹に陣を敷いた。 |
| この戦いで伊達軍は騎馬武者300騎、兵2000余りを討ち取ったという。 |
| 黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。 |
| さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした。 |
| この戦いと前後して、白河義親、石川昭光、岩城常隆が次々と政宗に服属した。 |
| このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。 |
| これに加え上述の白河氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった『戦国武将合戦事典』吉川弘文館、2005年の伊達政宗の項目。 |
| 東北地方の戦国時代史研究家である小林清治は、政宗の勢力拡張について、平安後期に白河以北の地を席巻した奥州藤原氏の勢力に匹敵するものであると評した。 |
| (小林清治『伊達政宗』吉川弘文館、1985年、p.47.)重修真書太閤記では、「正宗終に |
| 政宗の領土は面積的には、東北地方の1/3に留まる。 |
| しかし、太閤検地時に石高の高い東北地方南部を支配しているため、石高では高くなる。 |
| 石高の言及はないが、政宗が奥羽の30余郡を支配したとの同様の記述は氏郷記にもある。 |