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伏見宮貞愛親王
父
日本の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王第14王子、母は鷹司政熙の女鷹司景子。伏見宮第22代および第24代。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級内大臣。 |
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博義王
明治・大正期の伏見宮家の皇族、海軍軍人。最終階級は海軍大佐。伏見宮第25代当主の伏見宮博恭王第1王子。伏見宮の継承はしていないが、伏見宮博義王と通称さ... |
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華族
1869年から1947年まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族(諸侯華族)、国家... |
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東郷平八郎
日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級位階勲等功級爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 |
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永野修身
大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校28期。最終階級は元帥海軍大将・正三位・勲一等・功五級。東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。帝国海軍の歴史上、海軍三長... |
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伏見博英
日本の伏見宮家(皇族)出身の伯爵(華族)である。伏見宮博恭王の第4王子。皇族時代は博英王といった。 |
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米内光政
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。海軍大臣、内閣総理大臣(第37代)などを歴任した。渾名は「金魚大臣... |
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山本五十六
新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死す... |
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井上成美
日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。宮城県仙台市出身。親英米派(条約派)の米内光政、山本五十六の人脈に属し、日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反... |
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岡田啓介
日本の軍人、政治家。階級は海軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。海軍大臣(第14・18代)、内閣総理大臣(第31代)、拓務大臣(第7代)、逓信大臣(第37代... |
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嶋田繁太郎
大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍大将。東京都出身。 |
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徳川慶喜
妻
江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年‐1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職... |
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加藤友三郎
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。海軍大臣、内閣総理大臣(第21代)などを歴任した。 |
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華頂博信
華頂博信(かちょうひろのぶ、1905年(明治38年)5月22日-1970年(昭和45年)10月23日)は伏見宮家の皇族で、後に臣籍降下し華族(侯爵)となった海軍軍人、... |
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邦芳王
明治から昭和にかけての皇族。父は伏見宮貞愛親王、母は利子女王(有栖川宮幟仁親王第四王女)。伏見宮邦芳王と通称することもある。正嫡の子であることから... |
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河野千代子
母
閉じる 氏 名 所 属 河野 千代子 鳴門市交通安全母の会 会長
■ご意見の内容 ・鳴門ICから国道11号徳島方面への合流部で、大麻方面、三好市方面への案... |
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加藤寛治
明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身、福井藩士・海軍大尉加藤直方の長男。子息・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。 |
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伏見宮邦家親王
江戸時代、幕末の日本の皇族。伏見宮第20代および第23代。伏見宮貞敬親王の第1王子。幼称は睦宮(まさのみや)。父の貞敬親王は皇位継承候補として名が挙がっ... |
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華頂宮博忠王
華頂宮博忠王(かちょうのみやひろただおう、1902年(明治35年)1月26日-1924年(大正13年)3月24日)は日本の皇族、海軍軍人。 |
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伏見宮博明王
日本の旧皇族。伏見宮博恭王の第一王子博義王の第一王子で伏見宮第26代。日本文化振興会総裁。モービル石油顧問。 |
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プロフィール
伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう、明治8年(1875年)10月16日-1946年(昭和21年)8月16日)は、日本の皇族、海軍軍人。 伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将・大勲位・功一級。初め名を愛賢(なるかた)王といい、華頂宮相続に当り名を博恭と改めた。日露戦争では聯合艦隊 旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。また艦長や艦隊司令長官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。
生涯
| 華頂宮博厚親王薨去に際して、華頂宮の家督を継承し名を博恭と改める。 |
| 当初実系である伏見宮の家督は弟宮の邦芳王(くにかおう)が継承するはずであったが、邦芳王が病弱との理由から伏見宮に復籍し貞愛親王の継嗣となった。 |
| 1931年(昭和6年)末、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、1932年(昭和7年)2月、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である軍令部長に就任させた。 |
| 海軍軍令部長を、陸軍「参謀総長」と対応させて「軍令部総長」(「海軍」とつけない)改めたのは伏見軍令部総長宮「ふしみぐんれいぶそうちょうのみや」と読み、官職にある皇族の正式な読み方である。 |
| の時代である。 |
| 北原白秋作詞、海軍軍楽隊作曲による国民歌「伏見軍令部總長宮を讃え奉る」も作られている。 |
| 海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について「私の在任中でなければできまい。 |
| ぜひともやれ」と高橋三吉、嶋田繁太郎といった軍令部次長に指示するなど、皇族の威光を利用して艦隊派寄りの政策を推進し、日独伊三国同盟・太平洋戦争(大東亜戦争)と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持っていた。 |
| 太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。 |
| 二・二六事件では事件発生の朝、加藤寛治、真崎甚三郎と協議を行ってから参内している。 |
| この時昭和天皇の不興を買い、その後叛乱鎮圧に向けて動いている。 |
| 1944年(昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。 |
| そしてこの対策は、急がなければならない。 |
| 戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した防衛庁防衛戦史室『戦史叢書』45巻。 |
| この「特殊な兵器」は特攻兵器を指したものであるとの主張もある。 |
家族
| 父:伏見宮貞愛親王。 |
| 母:貞愛親王妃利子女王-実母:女房河野千代子。 |
| 兄弟:博恭王-邦芳王-昭徳王-禎子女王。 |
| 妻:徳川経子(徳川慶喜9女)。 |
| 第1王子:博義王(1897年-1938年)-海軍大佐。 |
| 一条実輝公爵の娘朝子と結婚する。 |
| ''第1王女'':恭子女王(1898年-1919年)-1918年侯爵浅野長武に降嫁。 |
| 第2王子:博忠王(1902年-1924年)-博恭王の後を継ぎ華頂宮を継承。 |
| 第3王子:博信王(1905年-1970年)-1926年華頂姓を賜り臣籍降下(侯爵)。 |
| 兄王の華頂宮の祭祀を継承する。 |
| ''第2王女'':敦子女王(1907年-1936年)-伯爵清棲幸保(伏見宮邦家親王第15王子清棲家教の養子、真田幸民伯爵3男)に降嫁。 |
| ''第3王女'':知子女王(1907年-1947年)-久邇宮朝融王妃。 |
| 第4王子:博英王(1912年-1943年)-伏見姓を賜り臣籍降下(伯爵)。 |
評価
| 当時の皇族軍人は実質的権限を発揮しないのが通例になっていたが、実戦・実務経験豊富な博恭王はお飾りの皇族軍人ではなく、「潮気のある」一流の海軍軍人としての風格を持っていた。 |
| 自ら率先して最前線に立ち、常に部下将兵を鼓舞し苦楽を共にするのを厭わない姿勢や、操艦の名手として関門海峡のような「船の難所」でも難無く艦を操るその実力は海軍内でも評価されていた。 |
| 東郷平八郎とは『宮様と神様(殿下と神様)』と呼ばれ、海軍内で神格化されていた。 |
| 博恭王は大艦巨砲主義者であったので、博恭王の威光を利用した艦隊派の台頭を招くことに繋がった。 |
| これについて井上成美は、皇族が総長に就くことで、意見の硬直化を招いたことを「明治の頭で昭和の戦争をした」と称して批判している。 |
| 博恭王の総長退任時に及川古志郎海相に意見を求められた井上は「もともと皇族の方はこういう重大事に総長になるようには育っておられない」「宮様が総長だと次長が総長のような権力を持つことになる」と手厳しく批判している。 |
| これらのことから、海軍内の条約派を追放し、日米開戦の元凶になった一因となったとして、戦後は批判的な評価を受けることが多い。 |
| 海軍反省会でも博恭王の戦争責任について問題提起されたが、皇族という存在の重さゆえか、議論は深まらなかった。 |
| 反面、博恭王自身は日米戦について「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。 |
| ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という『早期決戦・早期和平』の考えを持っていたとされる嶋田繁太郎の日記による。 |
| 連合艦隊・日米開戦編」(1998年7月)。 |
| 艦隊派の重鎮であった博恭王とは反対の立場であった『欧米協調派・条約派』の山本五十六とは、日米戦について近い考えをしていたといわれる。 |
| 軍令部の権限強化を図るべく博恭王が主導した「軍令部令及び省部互渉規定改正案」に対し、井上成美は自らの軍務局第1課長時代の職を賭して激しく抵抗し、結果として更迭された。 |
| その後横須賀鎮守府附となり、待命・予備役編入の危機にさらされた。 |
| しかし大佐昇進後5年目にして戦艦比叡艦長に補され、艦長の任期通常1年のところを2年務めて少将に昇進している海軍における慣例として、大佐昇進から少将昇進には6年を要したが、6年目の大佐として主力艦(戦艦・正規航空母艦)の艦長を務めれば、1年後に少将へ昇進することが確実であった。 |
| これは博恭王が敵であったはずの井上に対し、「男としてまた軍人として、まさにああでなければならない。 |
| 自己の主張、信念に忠実な点は見上げたものである。 |
| 次は良いポストに就けてやるとよい」と称讃したことによるものである。 |
| 海軍での生活や習慣が身に付いていた博恭王には皇族らしからぬ逸話が残っている。 |
| 入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが普通であるが、博恭王は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞り、パンパンと払い伸ばしてから体を拭いていたという。 |
| 下着の洗濯などは自ら行うこともあり、周りの者から「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。 |
| また嶋田繁太郎の日記によると、艦内では握り飯と漬物という簡易な食事を好み、吉田俊雄「四人の軍令部総長」(文春文庫)によると、海軍省食堂での昼食時における博恭王の好物は天ぷらうどんだったという。 |
| また、軍令部総長の在任が長い事に掛けて、海軍部内では特徴的な長い顔から「長面君(ちょうめんくん)」と渾名を付けられていた。 |
| 博恭王の岳父は徳川慶喜であったが、あるとき艦内で士官たちが幕末の議論をしていて誰かが徳川慶喜を激しく批判したことがあった。 |
| 博恭王は黙って席を立ったが、後にその士官が謝罪に来たとき、「いや気にすることはない、勉強になった」と声をかけたという。 |
経歴
| 1875年(明治8年)10月16日、誕生。 |
| 1883年(明治16年)。 |
| 4月23日、華頂宮継承。 |
| 6月11日、博恭と改名。 |
| 1886年(明治19年)4月5日、海軍兵学校予科生徒。 |
| 1889年(明治22年)。 |
| 9月17日、海軍兵学校退校。 |
| 9月28日、ドイツ留学。 |
| 1891年(明治24年)10月5日、ドイツ海軍兵学校通学。 |
| 1892年(明治25年)4月8日、ドイツ海軍兵学校入校。 |
| 1893年(明治26年)3月30日、海軍少尉候補生。 |
| 1894年(明治27年)。 |
| 4月20日、海軍少尉。 |
| 10月3日、ドイツ海軍大学校通学。 |
| 1895年(明治28年)。 |
| 8月15日、ドイツ海軍大学校卒業。 |
| 9月、貴族院議員(皇族議員)。 |
| 10月29日、巡洋艦「厳島」分隊士。 |
| 1896年(明治29年)4月20日、巡洋艦「松島」乗組。 |
| 1897年(明治30年)。 |
| 12月1日、海軍中尉・戦艦「富士」分隊長心得。 |
| 12月8日、第1王子博義王誕生。 |
| 12月27日、海軍大尉・富士分隊長。 |
| 1898年(明治31年)11月14日、第1王女恭子女王誕生。 |
| 1899年(明治32年)8月26日、装甲巡洋艦「浅間」分隊長。 |
| 1900年(明治33年)10月13日、砲術練習所教官兼分隊長。 |
| 1901年(明治34年)6月10日、装甲巡洋艦「出雲」分隊長。 |
| 1月26日、第2王子博忠王誕生。 |
| 4月22日、戦艦「朝日」分隊長。 |
| 7月24日、戦艦「三笠」分隊長。 |
| 4月1日、功四級金鵄勲章受章・敷設艦「沖島」副長心得。 |
| 9月26日、防護巡洋艦「高千穂」艦長心得。 |
| 改元して大正元年10月4日、第4王子博英王誕生。 |
| 1913年(大正2年)8月31日、海軍少将・横須賀鎮守府艦隊司令官。 |
| 1915年(大正4年)12月13日、第2戦隊司令官。 |
| 1916年(大正5年)12月1日、海軍中将・将官会議議員・軍令部出仕。 |
| 1918年(大正7年)5月29日、恭子女王、侯爵浅野長武に降嫁。 |
| 12月1日、第2艦隊司令長官。 |
| 1934年(昭和9年)4月29日、大勲位菊花章頚飾受章。 |
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