| 町立雲城小学校3年で野球を始め、町立金城中学校では内野手であった。 |
| 島根県立浜田商業高等学校2年時に投手に転向。 |
| 以来、県内屈指の投手として注目を集めたが、夏の甲子園・春のセンバツには共に縁がなかった(3年時(1985年)には、夏の甲子園島根県予選にてベスト4の成績を残している)。 |
| 卒業後は、NTT中国野球部に入部。 |
| ソウルオリンピック代表にこそ選ばれなかったものの、アマチュア時代から既に、そのスライダーの切れ味はプロでも通用すると言われていた。 |
| 1989年の第60回都市対抗野球大会には、三菱重工広島の補強選手として出場し、初戦のNTT東京戦で与田剛と息詰まるような投手戦となる。 |
| 同年ドラフト1位で希望球団だった広島東洋カープに入団。 |
| プロ1年目の1990年、4月12日に初登板初先発を初勝利で飾り、スライダーを武器に二桁勝利・二桁セーブを挙げ、当時の新記録となる17試合連続セーブポイントも記録するなど、投手陣の主軸として活躍。 |
| 8月14日の対中日ドラゴンズ戦では郭源治からサヨナラ本塁打を放っている。 |
| しかし、史上初の新人で最優秀救援投手に輝いた与田剛に阻まれ、新人王の獲得はならなかったが、セ・リーグ会長特別賞が贈られている。 |
| 2年目の翌1991年は先発に専念。 |
| シーズンを通して17勝・防御率2.44を挙げ、最多勝利、最優秀防御率の二冠に輝き、チームのリーグ優勝に大きく貢献すると共に、シーズンMVP、沢村賞、ベストナイン(最優秀投手)を獲得。 |
| この年、4月25日の阪神タイガース戦の3回から5月11日の中日ドラゴンズ戦の7回まで、4試合にかけて30イニング連続無失点の球団新記録をマーク(2009年に大竹寛に更新される)。 |
| また10月23日の西武ライオンズとの日本シリーズ第4戦(広島市民球場)で先発し、8回一死まで無安打無得点に抑えた。 |
| それ以降は、先発、中継ぎ、抑えと頻繁に転向を繰り返すも、全体的に安定した活躍を見せた。 |
| 1992年、12勝を挙げ、プロ入り以来3年連続2桁勝利を記録するが、翌1993年にはシーズン最多敗を記録している。 |
| 1994年、リリーフに転向。 |
| 抑えの大野豊とともに投手陣を支えた。 |
| 1995年、プロ入り6年目で初の開幕投手を務め、勝利投手となる。 |
| シーズン当初は先発だったが、抑えの大野が不調に陥り先発に転向したため、井上祐二とともに再度リリーフに転向。 |
| 1996年、プロ入り後初めて、シーズンを通して抑えに定着。 |
| Max152km/hのストレートと縦に大きく割れる独特のカーブを武器に活躍し、自己最多の23セーブを記録。 |
| 前年は先発、同年はリリーフとして2年連続で開幕戦の勝利投手となる。 |
| 6月26日から6月30日にかけて、5日連続セーブの新記録を達成。 |
| 7月23日のオールスター第三戦の9回に登板、堀幸一、小久保裕紀、ブリトーを3者連続見逃し三振に仕留めて優秀選手賞を受賞。 |
| 11月に行われた日米野球では第1戦と第3戦にリリーフで1イニングずつ登板し、第1戦でバリー・ボンズ、アンドレス・ガララーガを、第3戦でイバン・ロドリゲス、ブレイディ・アンダーソン、スティーブ・フィンリーを三振に仕留めた。 |
| 1997年、前年に続いて抑えに定着。 |
| 同年台頭してきた横山竜士とともにリリーフ陣を支えた。 |
| 1998年、不振に陥ったため、抑えを小林幹英に譲って先発に再転向する。 |
| 1999年、新たな球種・シュートを習得して先発として活躍。 |
| 1991年の17勝に次ぐ15勝を挙げ、リーグトップの13完投・5完封を挙げる。 |
| 5月8日の中日ドラゴンズ戦ではノーヒットノーランを達成。 |
| 2000年、2度目の開幕投手を務め、勝利投手となる。 |
| 前年に続いて先発として2桁勝利を記録。 |
| 2003年、前年に続いて先発としてスタートしたが、小山田に代わって抑えを務めたルーキー永川勝浩が夏場以降失速。 |
| これを支えるためにシーズン途中から抑えに再転向。 |
| 9月14日の横浜ベイスターズ戦では、史上6人目となる100勝100Sを達成した。 |
| 2004年、中継ぎに転向。 |
| 永川、大竹寛とともにリリーフとして投手陣を支える。 |
| 8月以降はチーム事情により先発に再転向。 |
| 8先発で48回1/3を投げ、防御率1.48と安定感を見せた。 |
| 2005年、前年後半の安定感から先発としてスタートするも、結果を残せず6月から二軍に降格、ルーキーイヤー以来となる二軍登板を経験する。 |
| 一軍復帰後リリーフに転向。 |
| リリーフでは安定した投球を見せたが、シーズントータルでは30試合に登板し1勝、防御率6.33の成績に終わった。 |
| この年、出身地の金城町から町民栄誉賞を受賞している。 |
| 2006年、前年の野村謙二郎の引退により、チーム最年長選手となり、先発投手に転向。 |
| 当初は黒田博樹、大竹寛、ショーン・ダグラスの脇役的な扱いだったが、最終的にはチームで唯一シーズン通じてローテーションを守って投げきり、規定投球回数に到達すると共に8勝を挙げた。 |
| 5月4日には、東京ヤクルトスワローズ戦にて先発100勝目をあげる。 |
| 先発100勝かつ100セーブという記録は、江夏豊以来史上2人目。 |
| 39歳での規定回数到達は、大野豊に次ぐ球団史上2位の高齢記録であった。 |
| 2007年、9月19日に現役引退を表明。 |
| 10月6日の対横浜ベイスターズ最終戦は、佐々岡の引退試合として行われた。 |
| 10-0と広島が大量リードして迎えた9回表、二死無走者から登板したが、村田修一に高めの球を本塁打にされた。 |
| 球が上がった直後に場内は悲鳴と罵声が入り混じり、村田は涙を流しながら一周し、「人生で一番辛い本塁打。 |
| こんな辛い気持ちになるのは今日が初めて」と語ったただしこの時のカウントは1ストライク3ボールで、見逃せばフォアボールになっていた為に、村田があえて振りにいった結果である。 |
| 佐々岡は次の鈴木尚典を空振り三振に打ち取って、本拠地の最終戦を締めくくった。 |
| 試合終了後のセレモニーでは、「夢だったカープのユニフォームを今日まで着れて、私は幸せな男。 |
| 感謝の気持ちでいっぱいです」と挨拶し、場内を一周。 |
| この時、ひとり三塁側ダッグアウト前に残っていた村田が「申し訳ありませんでした」と頭を下げたが、佐々岡は「真剣勝負の結果。 |
| 気持ち良かった」と笑顔で応えていた。 |
| なお村田は、この佐々岡からの本塁打が決め手となり、同年の本塁打王を獲得している。 |
| 村田はシーズン後「引退登板の時には、できれば打順が回って欲しくなかった。 |
| 打った後は佐々岡さんのためにも、カープファンのためにも、絶対にタイトルを獲らなきゃいけないと思った」と振り返っている。 |
| 引退試合を終えた翌日の対東京ヤクルトスワローズ最終戦(神宮球場)では、佐々岡と同じく同年限りで引退し、アマ時代にバッテリーを組んだこともある古田敦也の引退試合にワンポイント登板した。 |
| この8回裏二死の対戦で古田を遊ゴロに打ち取り、登板後には古田と固い握手を交わし、花束を贈った。 |
| 試合後は左翼席へサインボールを投げ込んで東京のファンに別れを告げ「マーティに最後のわがままを聞いてもらった。 |
| 12月1日付けで2008年、中国放送RCC。 |
| TBS系列の野球解説者として、2008年11月30日まで契約が決まった。 |
| また、同系列のキー局・TBSテレビ(2009年まで)・ラジオの解説者も兼任することになった。 |
| スポーツニッポンの野球評論家も務めている。 |