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プロフィール
- 佐竹義宣とは
- 幼少期
- 家督相続と小田原征伐
- 常陸の掌握
- 唐入りと所領安堵
- 義によって石田三成を救う
- 関ヶ原の戦いへの対応
- 秋田への転封
- 秋田転封後の支配体制確立
- 大坂の陣での活躍
- 晩年
佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。佐竹氏19代当主。久保田藩(秋田藩)の初代藩主。 佐竹義重の長男。母は 伊達晴宗の娘。 伊達政宗は母方の従兄弟にあたる。
幼少期
| 義宣は、元亀元年(1570年)7月16日、太田城に生まれた。 |
| 義宣が誕生したころ、父・義重は、那須氏を攻めていたが、元亀3年(1572年)、那須氏と和睦した。 |
| この和睦は、那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎えること等が条件となっていた。 |
| 当時、義宣は3歳であった渡部1980、79頁参照。 |
家督相続と小田原征伐
| 天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続した家督相続の時期については諸説ある。 |
| 『佐竹家譜』は天正14年(月日不明)とし、『新編常陸国誌』は天正16年としているが、石田三成及び増田長盛に宛てた天正17年10月2日付けの書状では、天正17年正月に隠居したと記述されている。 |
| また、『藩翰譜』は、水戸城を攻め落とした直後の天正18年に隠居したとしている。 |
| 渡部1980、91頁参照。 |
| このころの佐竹氏は、天正12年(1584年)に後北条氏と和議を結んで南方を抑えていたが渡部1980、82頁参照、北方では伊達政宗に黒川城(義重の次男であり義宣の弟である蘆名義広が城主となっていた)を陥落させられ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた渡部1980、87~88頁参照。 |
| 佐竹氏は、伊達氏と対立する傍ら、豊臣秀吉と音信を通じ渡部1980、89頁参照、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。 |
| こうした状況下において、義宣は、天正17年(1589年)11月28日、秀吉から、小田原征伐への出陣命令を受けた。 |
| しかし、義宣は南郷において伊達政宗と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかった渡部1980、99頁参照。 |
| 義宣は、秀吉自らが京を出立したという知らせを受けて、宇都宮国綱に対応を相談した上で、天正18年(1590年)5月、宇都宮国綱ら与力大名を含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かった。 |
| 義宣は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、天正18年(1590年)5月27日、秀吉に謁見して臣下の礼をとった。 |
| 秀吉のもとに参陣した義宣は、天正18年(1590年)6月、石田三成指揮の下、忍城を攻めた。 |
| 義宣は、忍城水攻めの際の堤防構築に従事した渡部1980、100頁参照。 |
常陸の掌握
| 小田原の役後、義宣は、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められ、奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計21万貫余(35万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられた渡部1980、102~104頁参照。 |
| 天正18年(1590年)8月1日、に秀吉から安堵された常陸及び下野の一部の領地21万6758貫文(25万5800石)は下記の通り宛知行された。 |
| 11万石 佐竹義宣。 |
| 1万石 佐竹義重。 |
| 1万石 佐竹義久。 |
| 12万8800石 与力家来分。 |
| 佐竹氏と与力家来分の比率は50.2対49.8となっており、領主権力としては貧弱であった。 |
| これらの領地や家来には、秀吉に服従せずに独立を認められなかった勢力が佐竹氏の配下として編入された分が含まれ、家臣化は不十分であった。 |
| 以後、義宣は秀吉の権威を背景に江戸氏・大掾氏を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる。 |
| 藤木久志「豊臣期大名序説-東国大名を例として-」(『歴史学研究287号』1964年4月に収録)。 |
| これにより、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれたという『藩翰譜』は、佐竹氏は天下6人の大名の数に入ると記述する。 |
| 渡部1980、104頁参照。 |
| また、義宣は、天正18年(1590年)12月23日、秀吉の執奏によって従四位下の位を賜り、侍従・右京大夫に補任され渡部1980、106頁参照、天正19年(1591年)1月2日には、秀吉から羽柴姓を与えられた渡部1980、283頁参照。 |
| 義宣は、朱印状による所領安堵の直後から、常陸国全域に支配を及ぼすことを企図し、まずは、居城を太田城から水戸城へ移すこととした。 |
| 当時の水戸城主は、小田原征伐の際に参陣しなかった江戸重通であった渡部1980、107頁参照。 |
| 義宣は上洛中であったので、水戸城攻略は父・義重が行い、天正18年(1590年)12月20日、水戸城を攻め落とし、同月22日には、府中(後の石岡市)に拠る大掾清幹を攻めて大掾氏を滅亡させた渡部1980、109頁参照。 |
| 天正19年(1591年)2月9日、京から帰った義宣は、鹿島郡及び行方郡に散在していた大掾氏配下の国人たち、いわゆる「南方三十三館」の国人衆を謀殺して、常陸国全域の支配権確立に成功した。 |
| 天正19年(1591年)3月21日、義宣は水戸城に移り、佐竹義久に水戸城の整備拡張を命じた渡部1980、111頁参照。 |
| 水戸城に本拠を移した直後の6月、豊臣政権は義宣に奥州出兵2万5千人という非常に重い軍役を命じ、この動員は10月まで約4ヶ月間続いた。 |
唐入りと所領安堵
| 天正19年(1591年)9月16日、秀吉が唐入りのため各国大名に出兵を命じ、義宣も、5,000人の出兵を命じられた渡部1980、115頁参照渡部1980、116頁参照。 |
| この軍役は文禄元年(1592年)1月から翌文禄2年(1593年)閏9月まで約21ヶ月間続き、当初の5千人の軍役は途中で3千人に軽んぜられ、「御軍役役弐千八百六十九人」と名護屋陣中より報告された。 |
| 義宣は、文禄元年(1592年)1月10日、水戸を出発し、同年4月21日、名護屋城に到着した渡部1980、122頁参照。 |
| 文禄2年(1593年)5月23日、義宣は朝鮮へ渡るよう命じられ、6月13日、先陣の佐竹義久が1,440人を率いて名護屋を出航した。 |
| しかし7月7日、義宣に対して渡海を見合わせるよう連絡があったので、義宣自身が朝鮮に渡ることはなかった渡部1980、117頁参照。 |
| 唐入り後、義宣は、唐入りに際して整備した軍役体制を活用して水戸城の普請を進め、文禄3年(1593年)、普請は一応の完成を見た渡部1980、113頁参照。 |
| 文禄3年(1594年)1月19日、義宣は秀吉から伏見城の普請を命じられ、伏見城竣工後、伏見城下に屋敷を与えられた渡部1980、119頁参照。 |
| この伏見城普請は3千人役にて約10ヶ月間続いた。 |
| 文禄4年(1595年)6月19日、折からの太閤検地によって諸大名の石高が確定されたことを受け、義宣は、54万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受領した渡部1980、120~121頁参照。 |
| また、義宣は、文禄4年(1595年)7月16日以降、家中の知行割りを一斉に転換し、領主と領民との伝統的な主従関係を断絶させて、佐竹宗家の統率力を強化した渡部1980、114頁、123参照。 |
| 文禄3年(1594年)に実施された太閤検地の結果、翌文禄4年に佐竹氏領国に54万5765石という新たな石高が設定され、下記の知行割がなされた斉藤司「文禄期「太閤検地」に関する一考察-文禄3年佐竹氏検地を中心に-」(『関東近世史研究第19号』1964年4月に収録)。 |
| 3000石 石田三成分。 |
| 3000石 増田長盛分。 |
| この結果、佐竹氏と与力家来分の比率は66対33となって領主権力が大幅に強化された一方、一門の佐竹義久が豊臣政権寄りの特殊な地位に立たされたり、豊臣蔵入地の設置により金山が掌握されるなど豊臣政権の統制も強化された。 |
義によって石田三成を救う
| 慶長2年(1597年)10月、佐竹氏の与力大名であり義宣の従兄弟である宇都宮国綱が改易された。 |
| これに伴い、佐竹氏も何らかの処分を受ける可能性があったが、従前から親交があった石田三成の取りなしによって、処分を免れた渡部1980、124~125頁参照。 |
| 慶長4年(1599年)閏3月3日、前田利家が死去したことを契機として、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興及び脇坂安治は、石田三成の屋敷を襲撃した。 |
| この知らせを受けた義宣は、三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせた渡部1980、130頁参照。 |
| この一連の動きについて、義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然(古田織部)は、徳川家康に釈明するよう勧めた。 |
| これに対し、義宣は、「三成は公命に背いたこともないのに、加藤清正らは三成を討とうとした。 |
| これを受けて、重然は、細川忠興に取りなしを依頼した。 |
| 家康は、忠興からこの話を聞き、「義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義と言うべきである。 |
| 異存はない」と答えた渡部1980、131頁参照。 |
関ヶ原の戦いへの対応
| 慶長5年(1600年)5月3日、徳川家康は会津征伐のため東国の諸大名を京都に招集した。 |
| 同年6月6日、招集された諸大名の進撃路が発表され、義宣は仙道口を任されることとなり、水戸へ帰った渡部1980、136頁参照。 |
| 慶長5年(1600年)7月24日、小山に到着した徳川家康は、水戸にいた義宣に使者を派遣し、上杉景勝の討伐を改めて命じた。 |
| この際、家康の使者は、人質を上洛させるよう要求したが、義宣は、会津征伐は豊臣秀頼に代わって実施されるものであり、自身は秀頼に逆らう意志はないから新たな人質を出す必要はないとしてこの要求を断った。 |
| また、家康は、佐竹氏に預けられていた花房道兼を呼び出して、義宣の動向を確認した渡部1980、138~139頁参照。 |
| 義宣は、慶長5年(1600年)7月19日ころ、上杉景勝との間で上杉方に与する旨の密約を交わしたようであり渡部1980、145頁参照、自軍の赤館以北への進軍を差し止めた渡部1980、141~142頁参照。 |
| 義宣は家康に対し、重臣・小貫頼久を使者として派遣し、水戸城へ帰った理由を釈明させ、また、上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、佐竹義久に率いさせた300騎を送った渡部1980、147~148頁参照。 |
| 関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、義宣は、徳川家康及び秀忠に対し、戦勝祝賀の使者を派遣した。 |
| これに対する秀忠からの礼状は届いたが、家康からの礼状があったか否かは不明である渡部1980、155頁参照。 |
| 義宣は、上杉景勝が未だ伊達軍及び最上軍と対峙しているのをみて、佐竹氏に累が及ぶことを恐れ、家康に陳謝すべく伏見へ向かった。 |
| 途中、神奈川で会った秀忠に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康にあって謝罪及び家名存続の懇願をした渡部1980、155頁参照。 |
| 『徳川実記』によれば、徳川家康は、義宣のことを、「今の世に佐竹義宣ほどの律儀な者はみたことがない」「しかし、あまり律儀すぎても困る」と評したとされるが、これは会津征伐における義宣の態度を念頭に置いたものである渡部1980、265頁参照。 |
秋田への転封
| 慶長7年(1602年)3月、義宣は大阪城の豊臣秀頼と徳川家康に謁見した。 |
| そこで、義宣は、家臣の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような扶持を与えることはできないであろうことや、50石または100石取りの給人については転封先に連れて行かないことなどを述べている渡部1980、161~164頁参照。 |
| 5月17日、転封先が秋田に決定した渡部1980、166頁参照。 |
| 常陸水戸54万石から出羽秋田20万石への減転封であった。 |
| ただし、佐竹氏の正式な石高が決定されたのは、佐竹義隆の代になってからである渡部1980、169頁参照。 |
| 佐竹氏の処遇決定が他の大名家と比較して大幅に遅れた理由については諸説あり、この時期になって初めて上杉氏との密約が発覚したとする説や、島津氏に対する処分を先行させることで島津氏の反乱を抑える狙いがあったとする説がある渡部1980、172~174頁参照。 |
| また、佐竹氏が減転封された理由としては、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざける狙いがあったとする説がある渡部1980、174頁参照。 |
秋田転封後の支配体制確立
| 義宣は、慶長7年(1602年)9月17日、秋田の土崎湊城に入城した渡部1980、185頁参照。 |
| 義宣は、角館城、横手城及び大館城等を拠点として内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定を図った渡部1980、195~196頁参照。 |
| 後に土崎湊城は廃されることとなり、慶長8年(1603年)5月から築城が始まった久保田城を本城とすることになった。 |
| 父・義重は、横手城を本城にすべきと主張したが、義宣は、久保田城を本城にすべきと主張し、そのように決定したのである渡部1980、202~203頁参照。 |
| また、義宣は、家柄や旧例にとらわれず、渋江政光、梅津憲忠、梅津政景及び須田盛秀といった旧家臣及び関東・奥州の旧大名の遺臣達を能力本位で登用し渡部1980、197頁参照、積極的に開墾を進めて家中の建て直しに尽くした。 |
| しかし、牢人あがりで若手の渋江政光を重用することが譜代の老臣の反感を買い、家老の川井忠遠らによる義宣、政光の暗殺謀議も起こっている。 |
| これは逆に義宣が暗殺を企てた家臣らを粛清して決着した(川井事件)渡部1980、196頁参照。 |
| 義宣は、秋田への減転封を機に、一門及び譜代の家臣の知行を減少させ、その勢力を減殺し、当主の権力を強化して、新たな政策の実施と人材登用を可能にした渡部1980、238~239頁参照。 |
大坂の陣での活躍
| 慶長19年(1614年)の大坂の役では、義宣は徳川方として参陣した。 |
| 義宣は、慶長19年9月25日、参勤のため久保田城を出立していたが、その途中、同年10月7日に大阪への出陣命令を受けた。 |
| これを受けて佐竹軍は、同月15日以降、順次久保田城を出発し、江戸にいた義宣は同月24日に江戸を出発した。 |
| 義宣が大阪へ到着したのは、同年11月17日である渡部1980、252頁参照。 |
| 義宣は、玉造口に陣取り、上杉景勝とともに木村重成及び後藤基次が率いる軍勢とあたった。 |
| 大阪の役(冬の陣)において幕府から感状を受けたのはわずか12名であったが、うち5名を佐竹家中の者が占めたことからも、そのことが分かる渡部1980、253~254頁参照。 |
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