| 1920年3月18日、当時の東京府東京市神田区出身。 |
| 実家は果物問屋で競馬とはまったく無縁な家庭環境に育つ。 |
| 都内の乗馬クラブに通いはじめると乗馬の虜になり、騎手を志す。 |
| 1934年、東京競馬場にて名門尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。 |
| 当時の慣習に従い千葉県の御料牧場で修行を積み、1936年に騎手免許を取得。 |
| 以後尾形厩舎の主戦騎手として1938年にアステリモアで阪神優駿牝馬を優勝、翌1939年にテツモンで帝室御賞典(現在の天皇賞(秋))、タイレイで中山4歳牝馬特別を優勝するなど当時の若手騎手としては異例の活躍をした。 |
| アステリモアで阪神優駿牝馬を優勝した時、隆芳は18歳8ヶ月であり、これは現在でも史上最年少でのクラシック競走制覇となっている(日本中央競馬会(JRA)設立以降は武豊が1989年に菊花賞を優勝した時の19歳8ヶ月が最年少)。 |
| なお隆芳が次に優駿牝馬を制するのは29年後の1967年優勝馬のヤマピットであり、47歳2ヶ月で制した優駿牝馬は2006年優勝馬のカワカミプリンセスに騎乗した本田優が破る(47歳4ヶ月)まで史上最年長記録であった(現在では安藤勝己の49歳2ヶ月が最年長記録)。 |
| 1940年に兵役に就き、1945年に復員。 |
| 一時日本競馬会の盛岡育成場で働き、1946年に競馬界に復帰した。 |
| この兵役が無ければ、1943年に東京優駿などを制した歴史的名牝・クリフジにも騎乗していたであろうともいわれている。 |
| 戦後の隆芳の代表騎乗馬としてはハクチカラが挙げられる。 |
| 国内では東京優駿、天皇賞・秋、有馬記念を制したハクチカラは1958年に海外遠征を行う事になり、それに同行する形で渡米した。 |
| 米国での実戦ではいいところが無く日本での騎乗もあって数ヶ月での帰国を余儀なくされたが、現地でモンキー乗りと呼ばれる騎乗フォームを習得する機会に恵まれた事が隆芳にとって大きな転機となる。 |
| 帰国後の日本においてこの騎乗フォームの先駆者となった隆芳はリーディング争いを席巻、ついには自身初のリーディングジョッキーの座を獲得する。 |
| それまでにも一部の騎手が取り入れていたモンキー乗りはこれを契機に一気に他の騎手にも波及し、まもなく従来の騎乗フォーム(天神乗り)に取って代わった。 |
| また米国の騎手が課していた食生活などの厳しい生活管理を自ら取り入れたことも、その後の日本の騎手に大きな影響を与えた。 |
| 1963年、メイズイの3冠をかけた菊花賞では最後の直線で保田が騎乗したグレートヨルカが優勝しているが、このときメイズイに騎乗し6着に敗れた森安重勝に対して「バカヤロー!!」と怒鳴りつけ、表彰では笑顔が一切出なかったことは有名である。 |
| 1968年にはマーチスに騎乗して皐月賞を勝ち、史上初の八大競走全勝利騎手となった(その後、1998年に武豊が達成)。 |
| なおこの時保田は48歳2ヶ月であり、当時の史上最年長のクラシック勝利騎手となった(1986年に増沢末夫がダイナガリバーで東京優駿を48歳7ヶ月で勝利するまで破られなかった)。 |
| また武豊以前の「盾男」と称され、隆芳は騎手時代に天皇賞通算10勝(春3勝、秋7勝)を挙げ2008年に武豊が秋の天皇賞を勝利(優勝馬:ウオッカ)して11勝目(武の場合は2008年現在春6勝、秋5勝)を挙げるまで長らくに渡り中央競馬最多勝を保持していた。 |
| しかしながら隆芳が挙げた秋の天皇賞7勝は今も歴代最多勝記録である。 |
| 1970年に50歳で騎手を引退し、調教師に転向した。 |
| 現役引退レースは同年2月22日の京王杯スプリングハンデキャップであり、このレースでミノルに騎乗して最後の重賞制覇となり引退に花を添えた。 |
| 翌年の1971年に調教師に転向し、厩舎を開業する。 |
| 尾形厩舎から譲られたメジロアサマ(メジロマックイーンの祖父)が大活躍し、開業1年目で安田記念(当時はGI競走ではなかった)、函館記念、天皇賞(秋)に勝利した。 |
| 1976年から1977年に掛けては天馬・トウショウボーイを管理し、皐月賞・有馬記念・宝塚記念に優勝した。 |
| 1997年、JRAが調教師の定年制を導入したことに伴い調教師を引退した。 |
| 尚、厩舎は子息の保田一隆が引き継ぎ、1998年にセイウンスカイで皐月賞を勝って父子2代の皐月賞馬トレーナーとなる。 |
| 1995年5月、競馬関係者として初めて勲四等瑞宝章を受章。 |
| 2004年、騎手顕彰者として競馬殿堂入りを果たした。 |
| 2009年7月1日、老衰のため死去。 |
| 日本国政府は保田隆芳の功績を讃え、死去日の7月1日付で正六位を追叙した。 |