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西太后
母
清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺... |
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珍妃
妹
一般的には西太后と言われているが、現在でも不明のままである。恪順皇貴妃と諡号され、西陵にある光緒帝の崇陵の妃園寝に葬られた。 |
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康有為
清末民初にかけての思想家・政治家・書家。字は広厦、号は長素、のちに更生(更甡)と称した。出身地から康南海とも呼ばれる。 |
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徳宗
徳宗時代の失敗の教訓が活かされた結果とも言われる。 |
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同治帝
清国の軍閥化が進行してきた証左であると言える。西太后に信任された李鴻章により、政治と軍隊の洋化が進められ、対外政策にも柔軟な対応を見せた(洋務運動... |
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袁世凱
袁世凱(えんせいがい、1859年9月16日(咸豊9年8月20日)-1916年6月6日)は中国清末民初期の軍人・政治家。大清帝国第2代内閣総理大臣、中華民国臨時大総統、... |
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咸豊帝
咸豊帝(かんぽうてい、道光11年6月9日(1831年7月17日)–咸豊11年7月17日(1861年8月22日)、在位:1850年3月9日-1861年8月22日)は中国清朝の第9代皇帝。諱... |
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道光帝
道光帝(どうこうてい、乾隆47年8月10日(1782年9月16日)-道光30年1月14日(1850年2月25日)在位:1820年10月3日-1850年2月25日)は中国清朝の第8代皇帝。諱... |
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愛新覚羅溥儀
清朝第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日-1912年2月12日)、後に満洲国皇帝(在位:1934年3月1日-1945年8月18日)。1964年より中華人民共和国中国人... |
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梁啓超
梁啓超(りょうけいちょう)は清末民初の政治家、ジャーナリスト、歴史学者。字は卓如、号は任公、飲冰室主人など。さらに中国之新民他きわめて多数のペンネ... |
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康熙帝
清の第4代皇帝(在位1661年2月5日-1722年12月20日)。諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁... |
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乾隆帝
清の第6代皇帝(在位1735年10月8日-1796年2月9日)。諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。 |
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嘉慶帝
中国清の第7代皇帝(在位:1796年2月9日-1820年9月2日)。諱ははじめ永琰(えいえん)、即位後に顒琰(ぎょうえん)と改めた。廟号は仁宗(じんそう)。在世... |
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李鴻章
中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った。 |
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孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
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雍正帝
清の第5代皇帝(在位1722年12月27日-1735年10月8日)。諱は胤禛(いんしん(禛の字は示眞))、廟号は世宗、謚号は憲皇帝。在世時の元号を取って雍正帝と呼ば... |
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栄禄
清代末期の満洲正白旗人、姓は瓜爾佳(グワルギヤ)氏の軍人、政治家。光緒帝の従兄弟、西太后の姉妹の子にあたる。宣統帝溥儀の母は、栄禄の娘。 |
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順治帝
中国清王朝の第3代皇帝(在位1643年10月8日-1661年2月5日)。姓名は愛新覚羅福臨(アイシンギョロ・フリン)、廟号は世祖。在世時の元号順治を取って順治帝と... |
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ヌルハチ
中国後金の創始者(在位:1616年2月17日-1626年9月30日)。清の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン、モンゴル語でクンドゥレン・... |
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ホンタイジ
清の第2代皇帝(在位:1626年10月20日-1643年9月21日)。君主としての称号は満州語で「スレ・ハン」、モンゴル語で「セチェン・ハーン」。皇太極は皇太子、黄... |
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プロフィール
光緒帝(こうしょてい、こうちょてい、同治10年6月28日(1871年8月14日)-光緒34年10月21日(1908年11月14日)、在位:1875年2月25日-1908年11月14日)は中国清朝の第11代皇帝である。諱は載湉(湉はさんずいに恬)。廟号は 徳宗(とくそう)。在世時の元号の光緒を取って光緒帝と呼ばれる。
人物
| 同治帝が早世した後に権力保持を狙う西太后によって擁立された。 |
| 即位したのは3歳の時であり、当然実権は西太后が握っていた。 |
| 同治10年(1871年)のイリ問題、光緒2年(1876年)の琉球失陥、光緒11年(1885年)の清仏戦争によるベトナムへの影響力喪失、光緒20年(1894年)の日清戦争による朝鮮への影響力喪失など、相次ぐ自国のふがいなさを光緒帝は嘆き、国勢回復を切望するようになった。 |
| それゆえ康有為、梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり、西太后の傀儡から脱し、自らの親政により清の中興を成し遂げようとした。 |
| 光緒帝は1898年に体制の抜本的な改革を宣言(戊戌の変法)。 |
| しかしあまりにも急進的な改革に宮廷は混乱し、保守派の期待は西太后へ集まるようになる。 |
| 西太后は当初静観していたが、変法派の一部が西太后の幽閉を計画。 |
| 当初変法派に同調していた袁世凱は、変法派を裏切りこの計画を西太后の側近栄禄に密告した。 |
| 西太后は先手を打ってクーデタを起こし、光緒帝を監禁し、変法派を弾圧した(戊戌の政変)。 |
| 西太后は一時光緒帝の廃位を考え、端郡王載漪の子溥儁を大阿哥(皇太子)に立てたが、外国の反対にあい光緒帝の廃位は断念した。 |
| 義和団の乱が勃発し八ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后は光緒帝を連れて西安まで落ち延びる。 |
| その際に光緒帝の側室珍妃が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。 |
| 外国との交渉で、事件の処分は直接首謀者だけに限られ、北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。 |
| その後、西太后の主導で、かつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である光緒新政が展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった。 |
| 光緒帝は光緒34年(1908年)に死去。 |
| 清西陵に陵墓がある。 |
死にまつわる謎
| 死因については毒殺説と自然死説の両方が存在し、当時から砒素で毒殺されたという噂があった。 |
| 1980年の光緒帝の陵墓発掘の際の遺体調査では頸椎・毛髪いずれにも中毒の痕跡を見出せず外傷も存在しなかったこと、光緒帝に関するカルテ及び薬品の処方といった史料が現在も故宮に残されており書籍も出版されていることなどから、病死の可能性が濃厚と考えられてきた。 |
| しかしながら2003年より中国の国家清史編纂委員会、原子力科学研究院などから成るプロジェクトチームが結成され死因の調査を行った結果、2007年に頭髪に集中して通常の1000~2000倍の砒素が検出されたと報道され「これこそ一度に大量の砒素を投与された証拠だ」とし、再び砒素による毒殺の可能性がクローズアップされてきた。 |
| その後も調査を進め光緒帝の遺髪や衣服などを調査した結果、致死量をはるかに上回る猛毒の三酸化二砒素が検出された。 |
| 毒の残留状況や文献記録などから慢性中毒ではないとして委員会は2008年、光緒帝の死因は急性胃腸性砒素中毒であり毒殺されたものと結論付けた |
| 研究の成果は、編纂中の清史に反映される予定。 |
| 犯人についてはいくつかの説があり、主なものを以下に列挙する。 |
| だが、いずれの説にも証拠はなく、また共謀している可能性も考えられるものの、真相は明らかになっていない。 |
| ;西太后犯人説。 |
| 『崇陵伝信録』及び『清稗類鈔』等が唱える。 |
| 死去直前の西太后が毒殺を命じたという説。 |
| 西太后と光緒帝の死亡時間が近いのは、自分の死期を悟った西太后が、自分よりも光緒帝を長生きさせないために毒殺したから、という論理である。 |
| ;袁世凱犯人説。 |
| 溥儀(宣統帝・ラストエンペラー)の自伝『わが半生』等が唱える。 |
| かつて戊戌変法で光緒帝を裏切った袁世凱にとって、西太后が死去して光緒帝が復権することは、自身への報復を意味していた。 |
| 一説には、光緒帝は死去する前に「袁世凱を討つべし」という遺勅を残していたという。 |
| 西太后の死期が近いという情報を知った袁世凱が、宦官を利用し、先手を打って光緒帝を暗殺した、という論理である。 |
| 『わが半生』の中で溥儀は、古くから宮廷に仕える李長安という宦官から聞いた話として「光緒帝は直前までは元気だったが、袁世凱からの贈り物の後に急激に体調が悪化した」と記している溥儀『我的前半生』群衆出版社、1964年、20-21頁。 |
| 邦訳は小野忍ほか訳、『わが半生:「満州国」皇帝の自伝』筑摩書房、1977年。 |
| ;李蓮英犯人説。 |
| 『慈禧外伝』及び徳齢の『瀛台泣血記』等が唱える。 |
| 長年西太后に仕えていた宦官の李蓮英が毒殺したという説。 |
| 西太后の死去で自らの後ろ盾を失い、報復されるのを恐れて暗殺したという論理である。 |
| 通訳として宮廷に仕えていた徳齢などは、西太后の威を借り横暴を究めていた李蓮英が、光緒帝の復権により報復を受けることを恐れて光緒帝を殺害したとしている。 |
| 復権した光緒帝からの報復を恐れる、という点では、袁世凱説と似ている。 |
| 『逸経』等にある、侍医が毒殺したという説など。 |
后妃
| 孝定景皇后(同治7年(1868年)-民国2年(1913年))、本名:葉赫那拉靜芬(エホナラ・せいふん)。 |
| 西太后の弟桂祥の娘で、西太后の姪にあたる。 |
| 選秀女に参加して入選し、1889年に光緒帝の皇后に立てられる。 |
| 西太后と光緒帝が対立したため、光緒帝に疎まれ夫婦仲はよくなかったという。 |
| 溥儀が宣統帝として即位すると嫡母となり、隆裕皇太后と徽号される。 |
| 辛亥革命では清朝内部で主戦派と和平派の論争が起きるが、最終的には隆裕皇太后が和平派に傾き、皇帝退位の決断をした。 |
| そのため民国時代には、古代に禅譲した帝王にたとえられ、「女の中の尭舜」と呼ばれた。 |
| 1913年に死去した際には民国政府から国葬級の待遇を受け、多くの民国政府の官僚が西陵まで参列した。 |
| 諡号は孝定景皇后。 |
| 西陵の崇陵に光緒帝とともに葬られている。 |
| 端康皇貴妃(同治13年(1874年)-民国13年(1924年)):他他拉氏の長敘の娘。 |
| 妹とともに選秀女に参加して入選。 |
| 瑾嬪となり後に瑾妃に進む。 |
| 妹珍妃が西太后の怒りにふれたため、一時期貴人に落とされるが、後に瑾妃に復帰。 |
| 溥儀が即位すると皇考瑾貴妃と尊称された。 |
| 民国年間には端康皇貴妃の徽号が送られた。 |
| いわゆる四太妃の1人。 |
| 隆裕皇太后の死後は、実家が袁世凱に賄賂を贈ったために四太妃のなかで主導的地位につき、紫禁城の奥向きを取り仕切った。 |
| 溥儀の『わが半生』によると、少年時代の溥儀の生活に干渉したため煙たい存在だったようだ。 |
| 諡は温靖皇貴妃。 |
| 恪順皇貴妃(光緒2年(1876年)-26年(1900年)):他他拉氏の長敘の娘で瑾妃の妹。 |
| 姉とともに選秀女に参加して入選。 |
| 珍嬪となり後に珍妃に進む。 |
| 光緒帝に最も寵愛された妃という。 |
| 一時期、西太后の怒りにふれ、政治に口出しをし賄賂を受け取って官職を売ったとして貴人に落とされるが、後に珍妃に復帰。 |
| 戊戌政変では再び西太后の怒りにふれ、紫禁城内の一室に幽閉される。 |
| 義和団の乱で8ヶ国連合軍が北京占領した際、西太后らとともに西へ逃げることを拒否したため西太后の怒りにふれ、宦官に井戸に突き落とされて殺害された。 |
| 翌年西太后らが北京に戻るとようやく井戸から引き上げられて葬儀が行われ、恪順皇貴妃の諡号が送られた。 |
| 清朝の公式発表では、8ヶ国連合軍が迫り節を守るために自殺したとされている。 |
| 瑾妃、珍妃姉妹の墓は西陵の崇陵の妃園寝にある。 |
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1889年
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光緒帝の皇后に立てられる |
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1898年
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体制の抜本的な改革を宣言(戊戌の変法) |
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