| 小学生の頃、群馬県・四万温泉に集団疎開した経験を持つ。 |
| 東京都立工芸高等学校を経て、一浪して学習院大学文学部ドイツ文学科入学後、演劇部に入部。 |
| 当初は道具係だったが、上背があるということで無理矢理舞台に上がらされたという。 |
| その後、1年先輩でフランス文学科の篠沢秀夫(現・学習院大学名誉教授)に見出され、篠沢が企画していた仏語劇『ブリタニキュス』(ラシーヌ作)の主役に抜擢される。 |
| フランス語はまったく知らなかったが、見事に演じ切り高い評価を得た。 |
| とはいえ、児玉は本来は役者志望ではなく、大学卒業後は学者になるため、大学院進学を目指していた。 |
| だが、学部卒業式の当日、母の急死により就職先を探さねばならなくなる。 |
| しかし時季は4月目前、就職先が決まらず結局、知人が手を回して応募してくれていた東宝映画第13期ニューフェイス(新人俳優の募集)の面接試験に臨み、合格した。 |
| 試験当日の朝は1時間前に急に思い立ち、世田谷区岡本の自宅そばにあった停留所にたまたま東宝撮影所行きのバスが停車、すかさず飛び乗り向かったこともあり、水着持参であることも知らず水着審査で下着のパンツ一枚で参加し審査員から奇異の目にさらされるも、質問にウィットあふれる回答を返し、逆に歓心を買った、という逸話がある。 |
| この逸話は『トリビアの泉』や著書『負けるのは美しく』(集英社)で明かされている。 |
| 東宝専属となったもののいわゆるエキストラとしてセリフのない通行人役が長らく続く。 |
| 1959年封切「鉄腕投手稲尾物語」に通行人役として出演、それまで撮影所の掲示板に貼り出される仕出しの仕事を無為にこなす日々を送っていたが、この作品は児玉にとって不本意だった俳優業に興味が沸き始める転機となった。 |
| それは当作品のロケで博多に滞在していたある夜、宿舎で年下のスター俳優に誘われ立ち寄った喫茶店で、サインを求めてきたウエイトレスが児玉も人気俳優だと思い込み色紙を差し出したところ、年下のスター俳優が「この人は雑魚だからサインを貰っても意味ないよ!」と言ったことに一念発起、「10年間は俳優として頑張ろう!」と心に誓う2011年2月5日放送『土曜スタジオパーク」出演時のコメント、著書「負けるのは美しく」より。 |
| その後は次第にセリフのある役柄を得るようになってはいたが、相変わらず端役が続いていた。 |
| しかし、1961年4月封切の『別れていきるときも』で司葉子の初恋の相手役に抜擢されたことをきっかけに、頭角を現していく。 |
| 黒澤明監督作『悪い奴ほどよく眠る』に出演した際は、「とにかく目立とう」と必要以上に大げさな演技やフレームインを繰り返し、激怒した黒澤にいじめ抜かれる。 |
| 友人にそそのかされた児玉は「世界のクロサワ」を殴ることを決意するまでに至ったが、なんとか踏みとどまり、実行には移さずに出番を終える。 |
| のちに黒澤が自分のことを陰で「あの血気盛んさを10年持ち続ければものになる」と評価していたことを聞き、腰が砕けたと語っている。 |
| 1964年8月、東宝専属の中堅女優だった北川町子と結婚。 |
| まもなく彼女が女優を辞めたため、会社ばかりかベテラン女優の賀原夏子からも残念がられ、彼女が復帰する際は知らせてほしいと言われめげる。 |
| 結局、1967年に東宝を退社してフリーとなり、テレビドラマに活動の場を移す。 |
| 水前寺清子主演の『ありがとう』で一躍人気を得て、以後ホームドラマなどで活躍する。 |
| しかし、テレビドラマも機器の向上と演出方法の変化によりカット割りが多くなり、通しでの演技ができなくなったことから、徐々に仕事を減らすようになった。 |
| 1975年に朝日放送のクイズ番組『パネルクイズアタック25』の司会者となり、36年にわたり司会を行った(詳細は後述)。 |
| 1990年代から本業だったテレビドラマの仕事に消極的だったが、2001年のドラマ『HERO』の出演依頼を断った際に、療養中の娘から説得され一転して引き受けたという。 |
| 2002年、娘は当時4歳の息子を残し、胃癌により36歳で亡くなった。 |
| この頃より俳優としての出演も増え、若い世代からも人気を得るようになった。 |
| 一方、同年12月にニッポン放送の『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』出演が好評だったことから、2003年6月から『テレフォン人生相談』のパーソナリティを担当するようになった。 |
| 児玉の実体験を交えて悩みに回答するなど、リスナーからも親しまれていた。 |
| 2010年には19年ぶりのNHK大河ドラマとなる『龍馬伝』に出演し、主人公・坂本龍馬の父・八平を演じ、これが遺作となる。 |
| 2011年4月より、肝機能障害により緊急入院で療養のため、テレビ・ラジオ全番組の出演を休業していた。 |
| 同年5月16日12時28分、胃癌のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。 |
| 同年2月下旬より体調不良を訴え都内の病院にて検査をしたところ、胃癌が発見された。 |
| 3月下旬より入院、詳しい検査と治療に努めていたが、肝臓への転移もあり、手術不可能な状態だったという。 |
| その後、ゴールデンウィークを過ぎてから容態が急変し、5月16日に息を引き取った。 |
| なお、最後の仕事は、2011年3月23日に収録されたNHKBSプレミアム2011年4月1日にNHKの旧・BS2とBSハイビジョンが1局に統合され『BSプレミアム』として開局。 |
| PR用映像(後述)。 |
| テレビ出演は同年4月30日放送の『ワーズハウスへようこそ』(日本テレビ)が最後となった翌週5月7日以降は「海外出張中」という設定となり、代わって草刈民代が出演している。 |
| 通夜は5月20日、葬儀・告別式は5月21日に護国寺(東京都文京区)で営まれ、多くの芸能・放送関係者が弔問に訪れた。 |
| 法名は「修讀院釋清優(しゅうとくいんしゃくしょうゆう)」。 |
| 遺体は、新宿区の落合斎場で荼毘に付された。 |
| 没後の2011年5月27日には、放送文化基金賞の第37回特別賞授与が発表された |