| 朝鮮戦争中に陸軍士官学校に入学(11期)。 |
| 同期には盧泰愚らがいた。 |
| 1960年6月、陸軍大尉として崔世昌、張基梧、車智澈と共にアメリカ合衆国ジョージア州フォート・ベニングの特殊戦教育機関で6ヶ月間、沼地、山岳・サバイバル訓練などの「レインジャー・トレーニングコース」過程を受けた。 |
| また落下傘降下訓練(これはオプションと思われる)を受け、空輸団創設要員となった張甲済『別冊宝島89軍部!』黄民基訳、JICC出版局、1989年、181頁。 |
| 朴正煕がクーデターを起こすと、陸軍士官学校の生徒を率いて支持を表明。 |
| この功績が認められて最高会議議長秘書官になった。 |
| ベトナム戦争に参加し、帰国した。 |
| 1969年、特戦団司令部が創設された。 |
| 第一空輸旅団を母体として次々と旅団が生まれてゆき、自らも第一旅団長を務めた張甲済『別冊宝島89軍部!』黄民基訳、JICC出版局、1989年、181頁。 |
| この特殊戦略司令部を経て1979年に保安司令官になる。 |
| 朴正煕暗殺事件が起きると、暗殺を実行した金載圭を逮捕・処刑するなど暗殺事件の捜査を指揮する。 |
| 12月12日に戒厳司令官鄭昇和大将を逮捕し、実権を掌握(粛軍クーデター)。 |
| 1980年5月17日に5・17非常戒厳令拡大措置を実施。 |
| 9月に大統領就任。 |
| 翌1981年から第五共和国政府がスタートした。 |
| 1982年には長年続いた夜間外出禁止令を解除した。 |
| 1984年、戦後の韓国元首として初めて日本を訪れ、昭和天皇との晩餐会に臨むなど |
| 、日本と向き合う姿勢を強調し、この時には韓国の記念切手にもなっている。 |
| 同年、政治活動被規制者202人の規制を解除する |
| ほぼ同時期に第一次教科書問題が発生。 |
| 中国共産党に連携する形でこれを批判した。 |
| ただしこれは純粋な歴史認識問題というよりも、日本に60億ドルの経済援助を求めていたが日本は呑めないということで膠着していた全斗煥が、自らの独裁権力の強化のために日本からの援助を引き出させる手段として用いたとする説もある。 |
| 日米との連携を強め経済の活性化に成功するが、1983年にミャンマーのアウン・サン廟へ赴いた際、北朝鮮の工作員による全斗煥を狙ったラングーン爆弾テロ事件が発生する。 |
| 彼自身は難を逃れたものの、事件で多くの閣僚を失った。 |
| さらに1987年には北朝鮮の工作員金賢姫らによる大韓航空機爆破事件が起き、南北関係は緊迫度を増した。 |
| 反政府活動の取り締まりも強化し、大学生の副業の禁止や卒業の制限、学生運動に関連した学生を強制的に入営させて密告やスパイを奨励させる「緑化事業」を行った。 |
| 1980年には、非常戒厳令拡大措置にともない、社会的に弱者とされる失業者やホームレス、あるいは犯罪者や学生運動家、労働運動家など約4万人を一斉に逮捕させ、軍隊の「三清教育隊」で過酷な訓練と強制労働を課した。 |
| 特に後者は暴行などで52人の死者を出し(後遺症の死者は397人)、2768人に精神障害を残すなど計り知れない傷跡を残した。 |
| あまりの酷さに人々から「一旦入ったら生きて出られぬ」と恐れられたという。 |
| 逮捕された者の中には光州事件に連座した高校生や主婦、14歳の女子中学生も含まれていた。 |
| クーデター後に金大中を含む野党側の政治家を逮捕また軟禁し、非常戒厳令を全国に拡大させ、これに反発していた光州での民主化要求デモを鎮圧するため陸軍の特殊部隊を送り、市民が多数虐殺された(光州事件)。 |
| 金大中は軍法会議で死刑判決を受ける(後に無期懲役に減刑)ものの、1982年にアメリカに出国。 |
| 1987年以降には改憲・反政府運動も活発化し、7月には政権移譲を表明。 |
| 退任後には自ら財団を設置し院政を狙うが、利権介入などが発覚し親族が逮捕されるに至って、1988年11月23日に私財の国庫への献納と隠遁を表明した |
| その後も光州事件や不正蓄財への追及が止まず、死刑判決を受けた(金大中の計らいにより、減刑の後、特赦)。 |
| 2004年にも子息の不正貯蓄について検察から出頭を求められている。 |
| 全斗煥に対しては独裁者、虐殺者、在任中の汚職など否定的なイメージで見られることが多いが、その反面、経済発展やオリンピック誘致・スポーツ振興などの功績を評価すべきだという保守派からの擁護論もある。 |