| 玉野市立胸上小学校、東児中学校から岡山県立岡山東商業高等学校へ入学。 |
| 2年生の頃から4番を打ち、1982年、2年生の夏の全国高等学校野球選手権岡山大会では準決勝で川相昌弘(元巨人-中日)や後にチームメイト(同年齢同学年だがプロ野球では先輩)となる横谷総一(現阪神球団フロント)のいた岡山南を破ったが、決勝で関西に敗れ、翌年の3年生の夏は初戦で倉敷商に敗れて甲子園出場はできなかった。 |
| 3年生の頃はアンダースローの控え投手としてマウンドに立つこともあった。 |
| 佐々木誠とは同じ岡山県出身で、同年齢同学年(佐々木は水島工)で高校時代からのライバルであった。 |
| 1999年に佐々木が阪神に移籍をしてチームメイトになっている。 |
| 高校卒業後、三菱自動車水島を経て、1986年ドラフト3位で阪神に入団する。 |
| 1988年は1A・フレズノ・サンズに野球留学した。 |
| 主に守備力と走力を評価されてプロ入りした選手だったが、打力で売り出し、6月ごろからレギュラーに定着。 |
| 掛布二世とも呼ばれ、に21本塁打を記録するなど長距離砲として活躍した。 |
| 同1992年9月11日のヤクルトとの首位攻防戦では、9回裏2アウト一塁の場面で左中間に大飛球を放ち、フェンス下部のラバークッションに当たってスタンドに入り、これを平光清二塁塁審がホームランと判定し、一度はサヨナラ勝ちのホームを踏んだ。 |
| しかし、ヤクルト野村克也監督が抗議し、審判団が「エンタイトル二塁打」に判定を覆したため、今度は阪神中村勝広監督が抗議。 |
| 37分の中断後、連盟提訴を条件に試合は再開され、結局延長15回引き分け。 |
| 中断時間を含めて6時間26分のロングゲームとなり、終了時には日付が改まって翌日の0時26分となっていた(平光清の項を参照)。 |
| その後は若手の亀山努・新庄剛志などが台頭し、1992年を境に故障もあり次第と出番が減っていった。 |
| ついに一軍出場がなくなったオフにはチームの戦力構想から外れかけたが、吉田義男新監督の進言で残留。 |
| その後代打としての適性の高さを見せ、には開幕からしばらく代打率5割以上をマークするなど、ここ一番の場面で登場する代打の切り札となった。 |
| その後も絶好の場面で好打を放つことから吉田監督から「代打の神様」と命名され、「代打・八木」のコールで球場を大いに沸かせる選手となる。 |
| また、チームがリーグ優勝したには濱中おさむの故障などチーム事情もあり、勝負強さを買われて数試合で4番を任され、それに見合う活躍をする。 |
| それ以外の試合でも代打で力を遺憾なく発揮し、阪神18年ぶりの優勝に貢献した。 |
| この年は阪神が6月ごろからセ・リーグで独走状態となったが、阪神ナインには同年入団した金本知憲なども含め、優勝争い経験が希薄だったので、優勝が現実に迫る中冷静でいられる方法を八木に聞いていた者も多いらしい。 |
| 1992年に優勝争いをしていた当時の阪神ナインで、この年の星野仙一監督の胴上げに選手として加わったのは久慈照嘉・桧山進次郎と八木だけである。 |
| 桧山は当時ルーキーの一軍半の選手で、久慈は一度中日に移籍しているため、生え抜きの当時の主力では八木だけになる。 |
| 代打としての出場が多くなってから、常々、リーグ優勝を経験したら引退と口にしていたが、翌をもって現役を引退。 |
| 引退の理由は、中日戦で、前の打者が2人連続で敬遠されて自分は三振に終わり、相手チームから自分が打てないと判断された、と感じたためであった。 |
| 10月10日、阪神甲子園球場で行われた阪神対読売ジャイアンツ最終戦が引退試合となった。 |
| この試合では8回裏に代打で登場し、ライト前ヒットを放った。 |
| 阪神がリードのまま、9回表には一塁の守備に就いた。 |
| 巨人の攻撃は三者凡退で3つのアウト全てが内野ゴロだったため、全てのボールが八木のミットに収まり、ウイニングボールをゲームセットの瞬間に直接手にした。 |
| 八木にとってまさに有終の美を飾る試合となり、試合後の引退セレモニーでは「憧れの、甲子園の打席に立つことは…もうありません」と感極まった。 |
| 通算代打成績は400打数、94安打、13本塁打、98打点、打率.235。 |
| 現役時代、甲子園球場での登場テーマはジグソーのスカイ・ハイ。 |
| これは北海道日本ハムファイターズの二岡智宏と同じである。 |