| 入学後に母も急逝。 |
| 台湾に嫁いだ長姉を頼って海を渡り、そこで柔道を始めた。 |
| 台北一中(現・建国中学)、鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)を経て、米国・ペンシルベニア州立大学内藤克俊が卒業したのは、同州のほぼ地理的中心に創設されたペンシルベニア州立大学の本校(当時PennsylvaniaStateCollege、現在のThePennsylvaniaStateUniversity(通称PennState、略称PSU)MainCampus(UniversityParkCampus))である。 |
| この大学が、音楽学部・美術学部・体育学部・レクリエーション学部・リハビリテーション/ヒューマンサービス学部なども有する総合大学で、名門州公立大学から成るパブリック・アイビーズの一つであるのに対し、同州東部に位置する古都フィラデルフィアのペンシルベニア大学(TheUniversityofPennsylvania)は名門私立大学8校から成る元祖アイビーリーグの一つ。 |
| フィラデルフィアには、PSUの分校もあり、混同しやすいので注意。 |
| に留学、農学カレッジとして出発した同学の建学以来、工学部、地球・鉱物科学部等と共に同学の学術活動を引張って来た農学部に入学し、園芸学を専攻した「スポーツ20世紀⑤」ベースボール・マガジン社2000年p78。 |
| 講道館柔道二段だった内藤は、そこで柔道に似たレスリングを発見、大学でレスリング部のキャプテンとなると、全米学生チャンピオンにもなり「タイガー内藤」と異名をとった。 |
| 排日運動が激しくなったこの時代、日本人がアメリカの大学のスポーツ部のキャプテンに就任したのも、内藤の人望があったからこそといわれるが、在学当時、学長宅に寄宿させてもらっていた事も、これを裏付けている。 |
| 排日移民法が施行した1924年、米国代表として国際試合に出場する事が不可能となったため、学長は、駐米日本大使に日本代表として出場させるよう進言し、これを受け、駐米大使の推薦でパリオリンピック日本代表となった内藤は、ニューヨークからパリの大会会場へ向かった。 |
| レスリングは第1回大会から行われていたが、日本では柔道の亜流と考えられて軽視されていた。 |
| このため当時、日本ではレスリングは行われていなかった。 |
| パリへ向かう船内の練習で手の指を痛め、思うように動けず、フリースタイルフェザー級3回戦で、米国の大会では負けたことの無かったリードに判定で敗れた。 |
| この大会、日本選手の参加は陸上・水泳・テニスと内藤のレスリング、全23人で、うち唯一のメダル獲得となり、前回のアントワープオリンピックのテニス・シングルスとダブルスで獲得した銀2個に次ぎ3個目のメダルとなった。 |
| 日本初の銀メダルは、アントワープの熊谷一弥が第1号で、日本初の銅メダルはこの内藤となる。 |
| 内藤は五輪後、一旦は帰国し台湾の製糖会社に就職したが1928年、夫人と長男とともにブラジルへ移住。 |
| ブラジル開拓事業に人生を捧げ、当地で柔道場を開いて指導したといわれる。 |
| ブラジルで最初に柔道と剣道を纏めた組織であった伯國柔劒道聯盟が発足したのは1933年だったが、内藤が発起人の一人であった事が「伯國柔劒道聯盟趣意書」で分かる。 |
| また、同連盟が同年11月に発行した「武徳」という雑誌には柔道三段、と載っている。 |
| 東京オリンピックの際にレスリング協会からの招きで来日した。 |
| ブラジルでは、園芸の分野でも成功し、後年、同国産業協会会長に就任した。 |
| 1995年5月5日、日本ペンステート同窓会(会長本田博)は、記録に残る最初のペンシルベニア州立大学日本人卒業生でもある内藤克俊の偉業を称え、ブラジル及び日本から長男内藤克寛夫妻らの親族を迎え、内藤克俊プラーク(plaque)をジョアブ・トーマス(JoabL.Thomas)学長臨席の元で、同学に献呈した。 |
| この内藤が「日本レスリングの始祖」だとする見方もあるがその評価は難しい。 |
| 内藤の偉業が、日本レスリング協会という組織が誕生する8年も前のことであるためで、偉人とはいっても、協会とは関係のない人だと考えている人もいる。 |
| 日本で、まだレスリングをやってない時代にメダルを獲って、日本でレスリングを普及させることなく、ブラジルに行ってしまったため、日本レスリングの発展には、内藤はほとんど関与していない。 |
| ただし、上部団体の日本オリンピック委員会(JOC)〜日本体育協会の中では毅然と日本スポーツ界創世記のオリンピックメダリストとして栄光の人である。 |