16445
16617
185368
%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97
%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97
%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97
%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97
%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 内藤湖南の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
関連商品
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
神田喜一郎
東洋学者、書誌学者。号を鬯盦、書室を佞古書屋と称した。 |
|
|
白鳥庫吉
東洋史学者、文学博士。東京帝国大学(現東京大学)教授。東洋文庫理事長。 |
|
|
松岡正剛
日本の編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。京都府出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、株式会社松岡正剛事務所代表取締... |
|
|
富永仲基
江戸時代大坂の町人学者。懐徳堂の学風である合理主義・無鬼論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判した。 |
|
|
狩野亨吉
日本の教育者。江戸時代の特異な思想家、安藤昌益を発見、また夏目漱石の友人としても知られる。 |
|
|
内藤乾吉
内藤 乾吉 (1899) 人物名ヨミ ナイトウ ケンキチ 人物別名 Naitou, Kenkiti 内藤, 乾吉 内藤乾吉 生年 1899年 没年 - 職業・経歴等 - 書名... |
|
|
礪波護
日本の歴史学者。京都大学名誉教授、大谷大学教授。専門は東洋史で、特に三国時代から隋唐代の中国史。師である宮崎市定をはじめとする東洋史学者についての... |
|
|
宮崎市定
一般読書人にもファンが多かった。従三位勲二等旭日重光章。銀杯一組。正確な表記は「宮﨑」(「崎」は山偏に竒)であるが「宮﨑」と表記出来ない環境が多い... |
|
|
三田村泰助
三田村 泰助
三田村泰助 (みたむら たいすけ)、1909年(明治42年) - 1988年(昭和63年)は、日本の歴史家(東洋史・中国史)。 福井県南条郡武生町(... |
|
|
堀敏一
堀敏一(ほりとしかず、1924年-2007年5月29日)は日本の東洋史学者。明治大学名誉教授、東洋文庫研究員。『世界史の基本法則』の唐代担当、『均田制の研究』... |
|
|
狩野直喜
肥後国生まれの中国学者・歴史学者、京都帝国大学名誉教授。字は子温、号に君山、半農人がある。内藤湖南・桑原隲蔵と並ぶ京都支那学の創始者の一人。 |
|
|
青江舜二郎
秋田県秋田市生まれの劇作家、評論家。本名は大嶋長三郎。 |
|
|
津田左右吉
20世紀前半の日本史学者である。『日本書紀』『古事記』を近代的な史料批判の観点から批判・否定したことで知られる。従三位勲一等瑞宝章。 |
|
|
小川環樹
中国文学者。京都府京都市出身。主著に「風と雲」「唐詩概説」、「蘇軾」などがあり、初心者向けの啓蒙書や訳書も多数ある。 |
|
|
安藤昌益
江戸時代中期の医者・思想家。秋田藩出身。号を確龍堂良中。 |
|
|
和田清
和田 清(ワダ キヨシ) 1947年山口県下関生まれ。1975年九州大学大学院工学研究科博士課程単位取得後退学。1975年九州大学工学部助手。近畿大学第2工学部講師... |
|
|
陶徳民
陶 徳民(トウ トクミン) 1951年上海生まれ。復旦大学歴史学修士、大阪大学文学博士。近世近代日本漢学思想史・近代東アジア国際交渉史専攻。上海社会科学院... |
|
|
幸徳秋水
明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者。本名は幸徳傳次郎(こうとくでんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられた... |
|
|
プロフィール
- 内藤湖南とは
- 生涯
- 著作(近年)
- エピソード
- 関連項目
- 関連文献
- 回想
- 資料
- 関連サイト
内藤湖南(ないとうこなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日戸籍上は5月27日)-1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。 白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争では、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。
生涯
| 陸奥国毛馬内村(けまないむら、現秋田県鹿角市)にて、南部藩士・内藤調一(1832-1908号は十湾)と容子の次男として生まれる。 |
| 父十湾は折衷学派に属していた。 |
| 13歳のときに『日本外史』を通読したという。 |
| 秋田師範学校卒業後、1885年綴子(つづれこ)小学校の主席訓導(実質的には校長)を勤めた後、1887年(明治20年)に上京。 |
| 上京後、大内青巒が主管する仏教雑誌「明教新誌」の記者となり、その後は「三河新聞」や雑誌「日本人」、「大阪朝日新聞」、「台湾日報」、「万朝報」などの編集で名を馳せた。 |
| 日露戦争に於いては開戦論を展開し、1907年(明治40年)に京都帝国大学(現京都大学)の文科大学史学科(同年、学生募集開始)に講師として招かれた(東洋史学講座)。 |
| 1909年に教授、1910年に時の総長の推薦を受けて文学博士となり、足掛け二十年を東洋史担当として勤め、同僚の狩野直喜・桑原隲蔵とともに「京都支那学」を創設、京大の学宝とまで呼ばれた。 |
| 内藤の論の代表的なものとして、独特の文化史観に基づき、中国史の時代区分を唐と宋の間を持って分けるというものがある。 |
| 内藤は秦漢時代を上古と規定し、後漢から西晋の間を第一次の過渡期とし、五胡十六国時代から唐の中期までを中世とする。 |
| そして唐の後期から五代十国時代を第二の過渡期とし、この時代をもって大きく社会が変容したとする。 |
| 邪馬台国論争については、白鳥庫吉の九州説に対して、畿内説を主張し、激しい論争を戦わせた。 |
| 白鳥庫吉とは「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と称された。 |
| 1926年(大正15年)に60歳定年制にもとづき、退官。 |
| 同年帝国学士院会員に任命された。 |
| 京都府瓶原村(みかのはら、のちの加茂町 現在の木津川市)に隠棲し読書の毎日を過ごした。 |
| 1934年(昭和9年)6月26日死去。 |
| 東山の法然院に葬られた。 |
著作(近年)
| 『内藤湖南全集』(全14巻:筑摩書房、1969~76年、復刊1997年)、神田喜一郎・内藤乾吉編。 |
| #近世文学史論、諸葛武侯、涙珠唾珠、雑纂。 |
| #燕山楚水、続涙珠唾珠ほか。 |
| #「大阪朝日新聞」所載論説-明治33年8月から明治39年4月まで。 |
| #続「大阪朝日新聞」所載論説.雑文、時事論-明治期から晩年まで。 |
| #続.時事論、清朝衰亡論、支那論、新支那論。 |
| #雜纂、序文、旅行記、韓國東北疆界攷略、滿洲寫眞帖。 |
| #研幾小録、讀史叢録。 |
| #東洋文化史研究、清朝史通論。 |
| #日本文化史研究、先哲の学問。 |
| #支那上古史、支那中古の文化、支那近世史。 |
| #支那史學史。 |
| #目睹書譚、支那目録學ほか。 |
| #支那繪畫史、繪畫史雑纂。 |
| #湖南文存、湖南詩存、和歌、書簡、索引ほか。 |
| 『東洋文化史』 (中公クラシックス:中央公論新社、2004年、解説礪波護)。 |
| 元版 『日本の名著41 内藤湖南』 解説小川環樹、中央公論社、初版1971年。 |
| 『日本文化史研究』 講談社学術文庫上下、初版1976年。 |
| 『支那史学史』(全2巻)、『清朝史通論』 (平凡社東洋文庫 1992~93年)。 |
エピソード
| 戦国武将内藤昌豊の子孫であるという家系伝承を持ち、湖南は父・十湾の命で長篠古戦場跡の昌豊の墓を訪ねたことがあるという。 |
| (三田村泰助『内藤湖南』による)。 |
| 湖南を京都帝国大学教授にするという決断を下したのは当時の学長狩野亨吉であるが、文部省からそれに対し難色が示された。 |
| (秋田県)伝習学校卒業という彼の学歴が問題になったのである。 |
| このとき、「お釈迦様でも孔子でも学歴(帝大卒)のない人間は(帝大教授として)認めない」とさえ文部省側は言ったといわれているが、狩野が遂に「内藤をとらぬならおれもやめる」と押し通してしまったという(この辺りの双方のやり取りは諸説あるところで発言内容には異同がある)。 |
| 講義するときの声が極めて美しく、「金声玉振」とはこのことかと弟子の貝塚茂樹が回想している。 |
| 一般に知られている内藤の発言としては、「一体他流試合と申すもので、一寸も私の専門に関係のないことであります」といういささか挑発的な前置きで始まる講演「応仁の乱に就て」で示した「大体今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆(ほとん)どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知つて居つたらそれで沢山(たくさん)です」という発言がある。 |
| この発言はおおく日本中世史を論じるときに引用されている。 |
| 明治18年に主席訓導を勤めた綴子小学校は父十湾ら南部藩の兵士が18年前の戊辰戦争の秋田戦争で戦闘を行い、民家を焼き討ちにして撤退していった綴子村(現秋田県北秋田市)の中にある。 |
| 戊辰戦争と受けた被害のことは生々しく民衆の間に残っていた。 |
| しかし、内藤湖南は新教育を施こして村民の信頼を受けたと言われている。 |
| また、内藤を抜擢した狩野亨吉は、この秋田戦争で姉に背負われ命からがら津軽藩に逃げ落ちている。 |
関連文献
| 青江舜二郎 『竜の星座内藤湖南のアジア的生涯』 朝日新聞社1966、中公文庫1980。 |
| 青江舜二郎 『アジアびと・内藤湖南』 時事通信社、1971(初版の改訂判)。 |
| 千葉三郎『内藤湖南とその時代』 国書刊行会 1986。 |
| 加賀栄治『内藤湖南ノート』 東方書店 1987。 |
| J.A.フォーゲル、井上裕正訳『内藤湖南ポリティックスとシノロジー』 <テオリア叢書>平凡社 1989。 |
| 内藤湖南研究会編『内藤湖南の世界 アジア再生の思想』 河合文化教育研究所 2001。 |
| 粕谷一希 『内藤湖南への旅』 藤原書店、2011.10。 |
回想
| 『東方学回想Ⅰ 先学を語る〈1〉』(刀水書房、2000年)、座談会での門下生達の回想を収録。 |
| 三田村泰助 『内藤湖南』 中公新書 1972。 |
| 著者は弟子、一部回想も収む。 |
資料
| 奥村郁三監修『ビデオ 学問と情熱6 内藤湖南』 紀伊國屋書店1998(DVDで廉価再版された)。 |
| 蔵書は関西大学図書館に在り、全5冊で「内藤文庫」蔵書目録が出された。 |
| 『内藤湖南と清人書画』、「内藤文庫所蔵品集」より、関西大学出版部、2009。 |
| (大阪市立大学にも、旧蔵書5,892冊の(「内藤文庫」)が在る)。 |
|
1866年
|
内藤 湖南(ないとう こなん、(慶応2年7月18... |
|
1909年
|
教授、1910年に時の総長の推薦を受けて文学博... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
内藤湖南さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|