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円仁
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下野国都賀郡
794年
864年
平安時代
入唐求法巡礼行記
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つながりの強いひと
最澄
師事 師匠
平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては...
義真
平安時代前期の天台宗の僧。俗性は丸子連または丸子部。相模国の出身。修禅大師とも称される。奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から受戒され中国語にも通...
酒寄雅志
著者情報 酒寄 雅志 博士(歴史学)。現在、国学院大学栃木短期大学日本史学科教授。1949年、神奈川県に生まれる。一橋大学大学院博士課程を修了。共立女子中...
薬師如来
大乗仏教における如来の一尊。大医王仏とも称する。三昧耶形は薬壷または丸薬の入った鉢。種子(種字)は尊名のイニシャルのバイ(bhai)。
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江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(...
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江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄11年(1698)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。 比翼塚 幡随院長兵衛との掛け合いでお馴染み、四代目鶴屋南北作の歌...
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鈴木 靖民 教授 (SUZUKI Yasutami) 文学博士 國學院大學文学部史学科卒業(1964.3) 國學院大學大学院文学研究科修士課程修了(1966.3) 國...
法然
平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、1175年(承安5年)、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀...
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伝教大師の生涯と教え 大正大学まんだらライブラリー 7 天台宗教学振興委員会/編 多田孝正/編 出版社名 : 大正大学出版会 出版年月 : 2006年10月 I...
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平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。諡号(しごう)は智証大師(ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
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林慶仁
旭野一郎の時事談話 林慶仁 (大慈寺住職) × 旭野一郎 2010年2月2日 旭野:本日はよろしくお願いいたします。 お寺様には山門があるのですよね? 山門の中か...
武宗
武宗(ぶそう)は唐朝の第18代皇帝。初めは頴王に封爵。
井真成
中国の古都・西安で墓誌が発見された、奈良時代(中国の唐朝)の日本人留学生または官吏の姓名。日本名は不明。
良源
平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんさんだいし)の名で知られる。比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。...
佐伯有清
日本の歴史学者。
文殊菩薩
大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。一般に智慧を司る仏とされる。文殊は文殊師利(もんじゅしゅり)の略称。また妙吉祥菩薩(みょうきっしょうぼさつ)な...
大日如来
密教において宇宙そのものと一体と考えられる汎神論的な如来(法身仏)の一尊。三昧耶形は、金剛界曼荼羅では宝塔、胎蔵曼荼羅では五輪塔。種子(種字)は金...
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平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。尾張国知多郡の領主の秦道武(はたのみちたけ)の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。...
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後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年-56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。この元号は、漢王朝を再興した際に初め...
円澄
平安時代前期の天台宗の僧。俗姓は壬生氏。武蔵国埼玉郡の出身。始め関東の道忠(どうちゅう)の下で出家し法鏡行者と称したが、798年(延暦17年)比叡山に上...
プロフィール
円仁とは
円仁の人物像
遣唐使の渡海の困難
天台山を目指すが…
在唐新羅人社会の助け
五台山巡礼
長安への求法
帰国の旅の苦難
関連文献
関連項目
円仁(えんにん、延暦13年(794年)-貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代
天台座主
。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。入唐八家(
最澄
・
空海
・
常暁
・円行・円仁・
恵運
・
円珍
・
宗叡
)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
円仁の人物像
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。
兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。
大慈寺の師・広智は
鑑真
の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから
最澄
の理解者であって、多くの弟子を
最澄
に師事させている。
15歳のとき、唐より
最澄
が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、
最澄
に師事する。
奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師
最澄
に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。
最澄
が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。
816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。
この年、師
最澄
の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。
最澄
のこの旅行は新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。
817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。
浄土宗の開祖
法然
は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
遣唐使の渡海の困難
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。
838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。
『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。
志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。
円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。
唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
天台山を目指すが…
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧の為日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。
唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。
そこで円仁は遣唐使
一行
と離れて危険をおかして不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。
天台山に居た
最澄
の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。
日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。
唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。
海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人達に不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもない様だ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。
再び遣唐大使
一行
のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
在唐新羅人社会の助け
当時、中国の山東半島沿岸一帯は
張宝高
をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。
遣唐使一行から離れ、寄寓していた
張宝高
設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。
春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
五台山巡礼
840年、五台山を巡礼する。
標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。
五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。
五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、
最澄
とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。
法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。
また、南台の霧深い山中で「聖燈」ブロッケン現象か。
『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条などの奇瑞を多数目撃し、
文殊菩薩
の示現に違いないと信仰を新たにする。
長安への求法
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。
その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の
義真
からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。
また、金剛界
曼荼羅
を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界
曼荼羅
を得たこの晩、今は亡き
最澄
が夢に現れた。
曼荼羅
を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。
円仁は師の
最澄
を拝しようとしたが、
最澄
はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。
描かせていた
曼荼羅
が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。
長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
帰国の旅の苦難
当時の長安の情勢は、唐の衰退等も相まって騒然としていた。
不審火も相次いでいた。
その長安の街を夜半に発ったが、(
曼荼羅
や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)。
夜にも関わらず、多くの長安住人の送別を受けた。
送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人達が主であった。
餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。
歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った2010年7月に河南省登封市の法王寺で、お堂を囲む塀にはめ込まれていた石板に「円仁」「大唐会昌五年」の文字が刻まれているのが発見され、円仁の足跡を示す貴重な資料であると発表された(朝日新聞2010年7月9日夕刊)が、その後になってこの石板が後世の作または模造品ではないかとの疑問が投げかけられており、2010年9月現在真贋は明らかとなっていない(毎日新聞社2010年9月16日夕刊)。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。
楚州の新羅人約語(通訳のこと)・劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。
円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。
朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。
新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。
博多津に到着し、鴻臚館に入った。
(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。
日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いる様に太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条。
巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動
として知られる瀧泉寺や山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。
慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされる。
浅草の浅草寺はそのひとつ。
後に円仁派は山門派と称された。
(
円珍
派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。
関連文献
佐伯有清
『慈覚大師伝の研究』 吉川弘文館、1986年。
佐伯有清
『
最澄
とその門流』 吉川弘文館、1993年。
佐伯有清
『円仁』 吉川弘文館。
鈴木靖民
編 『円仁とその時代』高志書院 2009年。
福井康順
編 『慈覚大師研究』 早稲田大学出版部、1980年。
山田恵諦
『慈覚大師』 第一書房、1979年。
壬生台舜
『日本の仏教3 叡山の新風
最澄
・円仁』 筑摩書房、1967年。
佛教芸術学会編 『特集円仁と仏教美術』 毎日新聞社、2008年。
<佛教芸術 東洋美術と考古学の研究誌>300号(2008年9月号)。
『入唐求法巡礼行記』、平凡社東洋文庫全2巻、※他はリンク先を参照。
阿南ヴァージニア・史代、小池晴子訳 ランダムハウス講談社、2007年。
エドウィン・ライシャワー 田村完誓訳、原書房 1984年、講談社学術文庫、1999年 。
『円仁唐代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」の研究』。
『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて 今よみがえる唐代中国の旅』。
玉城妙子 『円仁求法の旅』 講談社、2000年。
松原哲明
『
マルコ・ポーロ
を超えた男 慈覚大師円仁の旅』 福島一嘉写真、佼成出版社、1993年。
関連項目
円珍
天台
寺門宗
の宗祖。
張宝高
新羅の海上王。
円仁の求法の旅を支援。
円仁 - Wikipedia
より要約
2008年
<佛教芸術 東洋美術と考古学の研究誌> 300号
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