| 当時の長安の情勢は、唐の衰退等も相まって騒然としていた。 |
| 不審火も相次いでいた。 |
| その長安の街を夜半に発ったが、(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)。 |
| 夜にも関わらず、多くの長安住人の送別を受けた。 |
| 送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人達が主であった。 |
| 餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。 |
| 歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った2010年7月に河南省登封市の法王寺で、お堂を囲む塀にはめ込まれていた石板に「円仁」「大唐会昌五年」の文字が刻まれているのが発見され、円仁の足跡を示す貴重な資料であると発表された(朝日新聞2010年7月9日夕刊)が、その後になってこの石板が後世の作または模造品ではないかとの疑問が投げかけられており、2010年9月現在真贋は明らかとなっていない(毎日新聞社2010年9月16日夕刊)。 |
| 「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。 |
| 楚州の新羅人約語(通訳のこと)・劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。 |
| 円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。 |
| 朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。 |
| 新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。 |
| 博多津に到着し、鴻臚館に入った。 |
| (『行記』847年(承和14年)9月19日条)。 |
| 日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いる様に太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条。 |
| 巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。 |
| 目黒不動として知られる瀧泉寺や山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。 |
| 慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされる。 |
| 浅草の浅草寺はそのひとつ。 |
| 後に円仁派は山門派と称された。 |
| (円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。 |