| 1919年(大正8年)、18歳。 |
| 新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」等が当たって多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工達を引き連れ飛鳥山に花見に繰り出した際、職工達が隣席の者達と喧嘩を始めた。 |
| 年若い円谷がこれを仲裁したことで、喧嘩相手だった天然色活動写真株式会社の枝正義郎に見初められ、映画界に入ることとなる。 |
| 同社はこの年、国際活映(国活)に吸収合併される。 |
| 同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影する。 |
| 1920年(大正9年)、19歳。 |
| 会社合併に伴い、国活巣鴨撮影所に入社。 |
| 神田電機学校を卒業する。 |
| 国活ではカメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て見事やり遂げ、一気にカメラマンに抜擢される。 |
| 1921年(大正10年)、20歳で兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班所属となる。 |
| 1923年(大正12年)、22歳。 |
| 除隊後、祖母の家業専念の誘いを拒み上京。 |
| 東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰して『延命院の傴僂男』を撮影。 |
| この作品は翌年元旦より、浅草大東京館にて公開された。 |
| 1924年(大正13年)、23歳。 |
| 震災後、各映画撮影所が京都へ移ったため、円谷もこれを頼って京都に居を移し、小笠原明峰の小笠原プロダクションに所属する。 |
| 1925年(大正14年)、24歳。 |
| 衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画聯盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。 |
| 『狂った一頁』の撮影助手を担当した。 |
| なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「テヘラ亭」とあだ名を付けた。 |
| 一方、キャメラマンたちからは先進的な撮影手法が反発を買い、「ズボラヤ」と呼ばれる(下記参照)。 |
| 1927年(昭和2年)、26歳。 |
| 林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でカメラマンを担当、林を何重にもオーバーラップさせる特撮手法を採り入れ、映画は大成功となった。 |
| 1928年(昭和3年)、27歳。 |
| 正式に松竹京都下加茂撮影所に入社。 |
| 『怪盗沙弥磨』が入社第一作となる。 |
| 『十字路』(衣笠貞之助監督)を、杉山公平とともに撮影。 |
| 1930年(昭和5年)、29歳。 |
| 自費を投入して、移動撮影車や木製のクレーンを制作する。 |
| このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚、「円谷英二」と名乗るようになる。 |
| 兄のように尊敬する5歳年上のおじの名が「一郎」だったので、遠慮して「英二」を名乗るようにしたという。 |
| 結婚後、下加茂撮影所裏の一軒家に居を構える。 |
| 1931年(昭和6年)、30歳。 |
| 渡欧していた衣笠監督の帰国後一作目となる『黎明以前』を、杉山公平とともに撮影。 |
| ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。 |
| 給料の約半分を撮影技術の研究費につぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒をおごる毎日だった。 |
| しかし、これら特殊撮影技師としての姿は当時、他のカメラマン達には理解できず、「何をやっているのかわからないズボラヤだ」と揶揄された。 |
| またこの頃、研究資金と生活費の足しにと、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を四条河原町の大丸百貨店に売り込み、大丸二階に設置されたこの写真ボックスは大評判となる。 |
| 杉山公平の音頭取りの下、酒井宏、碧川道夫、横田達之、玉井正夫ら京都の映画人らと日本カメラマン協会を結成する。 |
| 犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。 |
| 日活入社初作品として、大河内傳次郎の『長脇差風景』を撮影。 |
| 試写で同作を鑑賞した円谷はこの特撮に衝撃を受け、フィルムを独自に取り寄せ、一コマ一コマを分析し研究した。 |
| 『浅太郎赤城颪』でスターだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、その撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社する。 |
| 当時の時代劇映画は歌舞伎の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目歌舞伎役者たちの白塗りの顔をくっきり映すものであり、こうした撮影手法はタブーだったのである。 |
| 同年、円谷の特殊技術に注目した大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る。 |
| 2月から8月にかけ連合艦隊の練習鑑「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景の長編記録映画『赤道を越えて』を撮影。 |
| ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用し、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られるアーノルド・ファンク監督を唸らせた。 |