| 1979年に国際プロレスに入門。 |
| デビュー戦は1980年5月4日、北海道紋別市スポーツセンターの米村勉戦。 |
| 1981年8月9日に国際プロレスが解散し、その後全日本プロレスに移籍。 |
| 天龍源一郎の付き人を務めた。 |
| この時期、同じ若手だった三沢光晴とは、一緒に海に遊びに行くなどして仲が良かったという。 |
| 1984年に海外初遠征。 |
| 1985年12月体重を増加させて帰国後、ジャイアント馬場の命名によりサムソン冬木に改名した。 |
| 1987年に再び海外遠征。 |
| プエルトリコ地区では、風貌が似てたため、「リキ・チョーシュー」を名乗った。 |
| 帰国後、天龍同盟に参加。 |
| 川田利明とのコンビ「フットルース」を結成。 |
| ただ川田は、天龍源一郎とのタッグの機会が多くなり、冬木が次第に孤立していく様になった。 |
| 当時天龍同盟と対立していた全日本の正規軍のジャンボ鶴田はそんな伸び悩み孤立した冬木に手を差し伸べ握手をするが、冬木は1990年に全日本を離脱しSWSに移籍し、再度天龍と共にREVOLUTIONの一員として行動を共にする。 |
| 1992年のSWS崩壊後はWARに移籍。 |
| ここでリングネームを本名に戻す。 |
| 理不尽大王を自称し、リング上でコントを披露するなど愛嬌のあるヒールとしてのイメージを定着させる。 |
| 冬木軍として邪道、外道とのトリオで活躍した。 |
| この頃、リングネームの読みを「こうどう」に変えた。 |
| 1996年にWARを離脱。 |
| 1997年に邪道、外道と共に冬木軍プロモーションを設立。 |
| 岐阜県大垣市で冬木軍の旗揚げ戦を開催。 |
| その後はFMWで活躍。 |
| ミスター雁之助、金村キンタローらとTNR(チーム・ノー・リスペクト)を結成し、大仁田厚をFMWから追放することに成功。 |
| その後もハヤブサら正規軍を苦しめる反面、ユニット「ブリーフブラザーズ」を結成し、白のバスローブにブリーフ姿(BADBOY非道だけ、彦根観光ホテル・現:コンフォートホテル彦根の浴衣を着用)でコントを披露(実際は冬木は黄金のブリーフ争奪戦に参加しただけで、コントは邪道、外道、金村キンタロー、ミスター雁之助、BADBOY非道が行った)した。 |
| TNR解散後も井上京子、チョコボール向井らとECWJAPAN軍を率いて活躍、またFMWのコミッショナーに就任するなど、リング内外で団体を牛耳るパフォーマンスは、リング上に留まらない新世代のヒールスタイルとも言われた。 |
| 1995年11月には早稲田大学「早稲田祭」で、「プロレス研究会“爆烈”」主催の「冬木軍理不尽道」と題する講演会に邪道、外道とともに出演した。 |
| 自身の娘の小学校の講演会にも出席し「意外だと思うけど、体育と給食が大嫌いだった」とカミングアウトしている。 |
| なお、その際に沢山の児童に囲まれて「大仁田になった気分だよ」と発言している(ヒールなので大仁田のようにファンに囲まれるような機会が無かったため)。 |
| 2001年10月27日、川田とシングルで対戦し敗北。 |
| その後全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に天龍と組んで出場。 |
| 2002年2月のFMWの経営破綻後、3月に自ら主催する団体としてWEWを設立。 |
| 2002年4月7日、プロレスリング・ノアで15年ぶりに三沢光晴とシングル戦を行い、正統派のプロレスでも改めて高い技術を見せて冬木健在を誇示する。 |
| だが、その2日後、冬木軍主催興行の試合後に大腸癌のちに直腸ガンと判明する。 |
| を理由に引退表明を行う。 |
| その一報と病状を聞いた三沢は、WEWがまだ立ち上がっていない冬木のために、ディファ有明のたまたま開いていた4月14日をすぐさま確保、冬木の引退興行を開催することを発表し、ノアの全面協力を受けて、冬木はリングで引退試合を行った。 |
| なお「ガンによる引退」という発表については、それまでの冬木が演じてきた理不尽ギミックもあって、当初は「アングルではないか?」という疑問視をする者が少なからず存在していたが、その直後に『引退』などのアングルを嫌う三沢光晴が、冬木のための引退興行を急遽組んだ。 |
| この引退試合のためにノアはファンに向けて黄色の紙テープを持参するように協力を依頼し、10カウントゴングの後、冬木に向けて無数の紙テープが飛んだ。 |
| この時の収益金は全て冬木に贈られた。 |
| また、引退興行にはノアの内外から多くのレスラーが協力しており、さらに会場には、新日本の永田裕志、FMWで袂を分かっていた邪道&外道、さらには天龍までもが現れた。 |
| その後、5月5日に川崎球場でWEWの旗揚げ戦を行い、WEWではプロデューサーとして活躍。 |
| だが、ガンは肝臓などにも転移しており、2003年3月19日、横浜市民病院でがん性腹膜炎のため死去、。 |
| 葬儀の場では、GOEMON、敵対していたハヤブサまでもが号泣していた。 |
| 2003年5月5日の川崎球場で一夜のみ復帰、橋本真也と電流爆破マッチを行う予定だった。 |
| 亡くなる8日前の3月11日、病院から外出許可をもらい、橋本に直談判をして対戦許可をもらっていた。 |
| なお大会では、橋本は金村キンタローと電流爆破マッチを行ったが、橋本は試合前に対戦の約束を果たすかのように、冬木の遺骨を抱え、自ら電流爆破に身を投じた。 |