| 1885年(明治18年)8月22日福岡県赤間村(現・宗像市)に生まれる。 |
| 父は藍問屋を営む出光藤六、母は出光千代。 |
| 1901年(明治34年)福岡市商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)に入学。 |
| 1905年(明治38年)神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学。 |
| 1909年(明治42年)同校卒業。 |
| 卒業論文は「筑豊炭及び若松港」。 |
| 神戸で小麦粉と石油を扱う酒井商店に丁稚として入店。 |
| 学友からは、「お前は気違いだ。 |
| 学校のつらよごしだ」と非難を受ける。 |
| 1911年(明治44年)6月20日日田重太郎から別荘を売却して得た資金8,000円を渡され、満25歳で独立。 |
| その条件が一風変わっていて「ただやるのだから返さなくていい、利子もいらない。 |
| また、事業の報告もしなくてよい。 |
| 君が好きに使え。 |
| ただ、独立を貫徹すること、そうして兄弟仲よくやってくれ。 |
| 」というものであった。 |
| 福岡県門司市(現・北九州市門司区)に出光商会を設立。 |
| 日本石油(現・JX日鉱日石エネルギー)の特約店として機械油を扱った。 |
| 1914年(大正3年)南満州鉄道に車軸油の納入成功。 |
| 1919年(大正8年)-酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に「2号冬候車軸油」を納入することにより、事故を一掃した。 |
| 1927年(昭和2年)満鉄創立20周年のときに、感謝状と銀杯が贈られた。 |
| 1923年(大正12年)関東大震災に際し、全店員に禁煙を呼びかける(2ヶ月間)。 |
| 1924年(大正13年)第一銀行(現・みずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現:大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。 |
| この頃、自殺説までささやかれる。 |
| 1932年(昭和7年)門司商工会議所会頭に就任。 |
| 1937年(昭和12年)2月貴族院議員(多額納税)として登院。 |
| 以後、貴族院が廃止されるまで議席を持つ。 |
| 1940年(昭和15年)3月出光興産株式会社を設立。 |
| 1945年(昭和20年)8月出光佐三は、終戦の2日後、従業員に対し、「愚痴をやめよ。 |
| 世界無比の三千年の歴史を見直せ。 |
| そして今から建設にかかれ」と訓示した。 |
| 当時、多くの企業が人員を整理する中、出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言した。 |
| 1949年(昭和24年)2月東亜燃料工業がスタンダードと提携。 |
| 株式の51%をスタンダードに譲渡。 |
| 1949年(昭和24年)3月、日本石油(現・新日本石油)がカルテックス(ソーカル(現・シェブロン)とテキサコの合弁会社)と提携。 |
| 鶴見製油所を20,000トンの原油の引き換えに譲渡。 |
| 日本石油精製を設立し、その株式の半分をカルテックスに割り当てた。 |
| 1949年(昭和24年)3月、三菱石油(現・新日本石油)がタイドウォーターと提携。 |
| 1949年(昭和24年)6月、昭和石油(現・昭和シェル石油)がシェル(現・ロイヤル・ダッチ・シェル)と原油供給と販売に関する協定を結ぶ。 |
| 1949年(昭和24年)7月、興亜石油がカルテックスと原油供給と販売に関する協定を結ぶ。 |
| 1949年(昭和24年)10月、丸善石油がユニオンと原油供給と販売に関する協定を結ぶ。 |
| 1961年(昭和36年)秋、60億円の赤字を計上し、全体の3分の1にあたる株式をユニオン石油に譲渡する。 |
| 1953年(昭和28年)5月9日イラン石油輸入(日章丸事件)。 |
| 日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港。 |
| 英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランとの日本との信頼関係を構築した。 |
| このとき、出光佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。 |
| 1962年(昭和37年)7月生産調整に反対し、石油連盟を脱退(1966年(昭和41年)、生産調整が廃止されたことを受けて復帰)。 |
| 1966年(昭和41年)出光興産の社長を退き、会長に就任。 |
| 1972年(昭和47年)出光興産の会長を退き、店主に就任。 |
| 1976年(昭和51年)フランス共和国文化勲章コマンドール受章。 |
| 1981年(昭和56年)3月7日95歳で死去。 |