| ファウルグラウンドが広く風の強い千葉マリンスタジアムでのサードファウルフライの捕球のさまが実に危なっかしく名物となっていた。 |
| それにもかかわらず「僕は守備に関しては一家言ある」と発言して物議を醸したことがある。 |
| 守備練習中、強烈な打球に逆シングルで飛びついたが捕球出来ず、起き上がらずに寝そべって悔しがっていたら、次の打球が飛んで来て右肘を直撃。 |
| 故障に発展、二軍落ちとなったことがある。 |
| 上記のような危なっかしい守備を披露することから、当時西武に所属していたデニー友利は「千葉に行くのが楽しみ」と話しており、初芝も「西武のベンチは、自分が来たと分かったらみんな笑っている」と話している。 |
| また、現役引退後にロッテ戦の解説に登場した伊原春樹(元西武・オリックス監督)はロッテの三塁手がファールフライを捕球した際「初芝はよく落としてくれて助けてくれた」という発言を残している。 |
| ロッテオリオンズ時代の対ダイエー戦(川崎球場)で初芝は二塁打を打つが、外野手からの返球をダイエーの遊撃手の小川史が二塁ベース後方でキャッチし、二塁ベース上に二塁手のトニー・バナザードがいるであろうと小川がボールを投げたが、二塁手がいなかった為、その送球が丁度二塁に到達した初芝の右腕に当たったという珍プレーがあり、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』のネタになった。 |
| 1995年、パ・リーグ打点王のタイトルはロッテのシーズン最終戦を残した9月27日現在で初芝79打点(残り1試合)、田中幸雄79打点(残り3試合)、イチロー78打点(残り3試合)と僅差で争っていた。 |
| 一方、初芝は初のシーズン3割もかかっていて、9月27日現在で.302(454-137)。 |
| 最終戦で4打数0安打だと3割を切ってしまう(458-137.2991)ため、3割を切る可能性が出た時点で交代させると首脳陣から打診されたが、本人は「3割よりタイトルを狙いたい」とこの提案を拒んだ。 |
| そしてその最終戦では3打席凡退し(457-137.2997)、今季最終打席になるであろう第4打席は8回2死走者無しでまわってきた。 |
| 凡退すれば3割をフイにするうえ、走者無しのため本塁打でないと打点を上乗せ出来ない状況で、見事にレフトへ本塁打(投手豊田清)を打ち1打点を加え80打点でシーズンを終了。 |
| シーズン3割も確保した(458-138.301)。 |
| 最終的に3人が80打点で並びタイトルを分け合うことになったとはいえ、このシーズン最終打席の本塁打により選手生活で唯一の打撃タイトル(打点王)を獲得、同時にシーズン3割を達成することが出来た。 |
| 一時(1998年-1999年ごろ)、髪型を金髪にしていたことがある。 |
| 別に本人が望んだわけではなく、行きつけの床屋で店主から「初芝さん、たまにはブリーチでもしてみる?」と聞かれ、初芝はブリーチの意味が分からないのに、何のことかも聞かずにお願いしてしまったことで金髪になってしまったというのが本当のところだそうである。 |
| しかし、自身の娘が近寄らなくなったり、「田吾作スタイル」に代表されるように男臭いことが魅力である初芝だけにあまり好評ではなかったため、すぐに黒髪に戻している。 |
| 契約更改はよくても悪くても3分で終了。 |
| 2010年3月30日は当日夜に東海ラジオドラゴンズスペシャルの解説の仕事の為、日中神宮のグラウンドにいたところ、落合といつものように話をしていた。 |
| その際、社会人時代の野球の待遇の違い(初芝は午前中は仕事、午後は野球の練習だったが、落合の在籍時は違っていた)を話していた際、落合に初芝の社会人時代の待遇をうらやましがられたという。 |
| ルーキーイヤー(1999年)の松坂大輔からは、最多の3本塁打を放っている。 |
| そのため「松坂キラー」の異名がつき、当時発売された『未来蜂歌留多商会』(ハドソン子会社)の『パワーリーグ』、コナミの『フィールド・オブ・ナイン』といったプロ野球カードゲームでも、相手投手が松坂の時に初芝が打席に立つと、打力がアップするように設定されていた。 |
| 松坂とは同年シドニーオリンピックにおける野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の日本代表で同僚となった。 |
| 2000年の10月16日に対オリックス戦(千葉)でホームランを放ったが、他の10球団が公式戦を終えていて、対戦相手のオリックスや初芝以外の自軍の選手にホームランが出なかったため、20世紀最後のホームランになった。 |
| 2001年、アメリカのスポーツ専門局ESPNのスポーツニュース内のイチローを特集したコーナーで何故かイチローではなく初芝の顔写真が画面に登場した。 |
| なお、同様の事件がメジャーへ移籍する岩村明憲の紹介のときには今江敏晃の写真が貼られ、福留孝介の紹介のときは松中信彦の写真が貼られていた。 |
| 2001年に初芝橋本高校が甲子園に出場した際に、「名前が身近に感じる」という理由で同僚の橋本将とともに、同校に差し入れをしている。 |
| 又その苗字のせいか、地縁が全く無かったが特に阪神・近鉄ファンから、同校や初芝高校(現役当時、日本ハムには同校出身の沼田浩が在籍していた)・南海高野線初芝駅の事をヤジられた事があった。 |
| ある雑誌で元ラッツ&スターの桑野信義に似ていると言われ「クワマン」のニックネームがあると書かれていた。 |
| 趣味はヘヴィメタルを聴く事。 |
| 自宅の地下に専用のカラオケルームまで作ってしまうほどのメタルマニアで、ヘヴィメタル専門誌『炎』1997年1月号(現在は休刊)にインタビューが掲載された事もある。 |
| 同じくメタルマニアのエリック・ヒルマンとは非常に仲が良かった。 |
| 千葉マリンスタジアムで行われた『サマーソニック'05』に際し、 |
| ハロルド作石の漫画『ストッパー毒島』中では登場人物とメタル論議を繰り広げるシーンが描かれている。 |
| 2005年9月22日の引退セレモニーでは、メタリカの『ヒーロー・オブ・ザ・デイ』等の曲が場内にかかり、スタジアムに感動を呼んだ。 |
| 2005年12月放送のラジオ番組『HeavyMetalSyndicate』では「歳をとればとるほどデスメタルにハマっているんですよ」と発言していた。 |
| 2000年キャンプ中の短距離30mダッシュの練習メニュー際、初芝はトレーニングコーチの言われるがままにメニューをこなしていたが、やたらダッシュ量が多いと思ったために「これ、若手より練習量多いんちゃう?」と文句を言ったことがあった。 |
| 2005年の千葉マリンスタジアム最終戦(対ソフトバンク)で代打で出場の引退を控えた初芝。 |
| その後の引退セレモニーではスピーチを始めるもマイクの電源が入っておらず慌て、球場を沸かせた。 |
| 引退セレモニーが行われた日の翌日から、今江敏晃の負傷で3試合連続スタメン出場。 |
| この日の試合前にはチームメイトから「あれ、昨日引退セレモニーをしたんじゃなかった?」と言われたが、その後も試合での出場が続くたびに、チームメイトから言われる言葉が「早く引退してくれ!!」になってしまったという。 |
| なおロッテの先輩園川一美も引退試合の後の試合に登板しているが、こちらは順位が決まった後の消化試合であり、初芝の場合、この時点では順位は決まっていたが、当時のプレーオフのルール「1位と2位の差5ゲーム差だと1位のチームに1勝分のアドバンテージがつく」がかかっており、状況としては決して落としていい消化試合ではなかった。 |
| 同様のケースで2001年に巨人の村田真一と、2006年に中日の川相昌弘と、2007年に広島の佐々岡真司も引退試合の後の試合に出場している。 |
| 千葉マリン最終戦の代打時と同じ相手、三瀬からまるで引退試合のリプレイのような死球を受けている。 |
| 三遊間へのボテボテの当りを放ってしまいサードゴロと思われたがサードのトニー・バティスタがショートの川崎宗則と交錯、初芝自身がアウトは確実な状況にもかかわらず一塁へ全力疾走していた事も重なり神がかり的な内野安打となる。 |
| 続く福浦和也がヒットで繋ぎ、里崎智也が起死回生の逆転適時二塁打を放った。 |
| 千葉県野球場で行われた草野球での引退試合では選手兼監督として出場、9回裏二死満塁の場面でフライを打ち上げ選手生活に幕を引く。 |
| パソコンは全く利用しないと断言していたが、2006年より東京シティベースボールクラブホームページ内にてブログを開設した。 |
| ロッテ優勝当時、漫画雑誌「週刊少年チャンピオン」連載の漫画『元祖!浦安鉄筋家族』にて、加藤君という中学2年生の少年が初芝(漫画の中では『初島』という名前)に間違えられるという話が掲載された。 |
| 引退後の2006年12月25日、突然の自由契約選手公示。 |
| 2009年よりMLBから日本プロ野球復帰の井口資仁が背負う。 |
| 野村謙二郎は同い年、プロ入り同期、同じく95年に自己最高の活躍、99年野球日本代表選出、05年引退、リーグ優勝や日本シリーズ出場は一度のみ、所属先の生え抜きの功労者として引退と共通項が多い。 |
| 2007年9月19日に初芝がマリーンズ対ホークスの試合を千葉テレビで解説をしていた時、マリーンズは成瀬善久に代わって渡辺俊介をリリーフ登板させた。 |