| 建安4年(199年)6月『後漢書』「献帝紀」に袁術が死ぬと、劉勲は孫策を頼って落ち延びようとする袁術軍の大将の楊弘と張勲らを捕虜とし、財宝を略奪し、その軍勢も吸収したという『三国志』呉志「破虜討逆伝」。 |
| なお、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』によると、袁術の従弟の袁胤と女婿の黄猗は、曹操を恐れて寿春 |
| 劉勲は不審がったが、劉曄が説明をすると納得し、鄭宝の軍勢をも吸収した(『三国志』魏志「劉曄伝」)。 |
| こうして劉勲は長江・淮河の一大勢力へと発展した。 |
| しかし急増した兵を養えず、慢性的な兵糧不足に悩むことになる。 |
| 孫策はかねてから劉勲の勢力に恐れを抱き、表向きは友好関係を取り繕いつつ、攻撃の機会を狙っていた。 |
| あるとき、孫策は劉勲に贈り物と共に謙った内容の手紙を送り、予章郡の上繚の賊を共に討つことを提案してきた。 |
| 孫策の意図に疑問をもった劉曄は反対したが、劉勲は兵糧確保をする必要もあり、上繚へ出兵した。 |
| しかし、やはりその隙に本拠である皖城を孫策に攻め取られてしまった。 |
| 劉勲は江夏太守の黄祖の支援を受けて西塞山において、孫策と戦ったが完敗したという(『三国志』魏志「劉曄伝」、『三国志』呉志「破虜討逆伝」)なお、以下のような異聞が紹介されている。 |
| 劉勲は従弟の劉偕を豫章太守の華歆の元に派遣し食糧の援助を申し出た。 |
| しかし、華歆の方でも兵糧が不足していたため、郡の役人を劉偕につけて海昏、上繚の現地の有力者から3万石の米を供用させようとしたが、劉偕が現地に赴いて1ヶ月で数千石しか得られなかった。 |
| 劉偕は劉勲に手紙を送り、現地に軍勢を送って食糧を強奪することを提案した。 |
| 劉勲は自ら軍を率いて海昏に向ったところ、現地の有力者は食糧を持ち出して逃亡し、劉勲は結局何も手に入れることはできなかった。 |
| たまたま、孫策は江夏太守の黄祖を討つために遠征していたが、劉勲が本拠である皖城を留守にしていることを聞き、孫賁・孫輔らの別働隊を彭沢に派遣し劉勲の軍勢を待ち伏せさせると共に、皖城を急襲しただちに降服させ、袁術の残した兵士と物資、それに袁術と劉勲の妻子の身柄を確保した。 |
| 孫策は捕虜を呉に送りとどけると共に廬江太守の後任に汝南の李術を任命し皖城を守らせた。 |
| 劉勲は待ち伏せした孫策の別働隊に敗れ、楚江に入った後、尋陽から徒歩で置馬亭に逃げのびたところで、本拠の皖城が孫策の手に落ちたことを知り、西塞山に身を潜めた。 |
| 後に劉勲は山中にある流沂城に拠り、荊州の劉表に急を告げ、さらに江夏太守の黄祖に援軍を求めた。 |
| 黄祖は子の黄射に水軍5000を与えて援軍を差し向けたが、孫策は西塞山の劉勲を攻撃しこれを打ち破り、劉勲は劉偕と共に北の曹操の元へ逃れたという。 |
| 以上、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』。 |