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劉淵
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皇帝
251年
310年
五胡十六国時代
永鳳
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つながりの強いひと
石勒
五胡十六国時代の後趙の創建者。
文帝
前漢第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。劉邦の庶子で、生母は薄氏。妻に竇氏がいる。
劉聡
五胡十六国時代の漢(前趙)の第3代皇帝。父・劉淵の崩御後に長兄の劉和を殺して帝位を継いだ。八王の乱と塞外民族の大移動で混乱に陥った西晋を滅ぼし(永嘉...
元海
平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源雅俊。松橋大僧都とも称される。叔父の定海に師事して密教を学び、勝覚・定海から灌頂を受けた。長承元年(1132年)5...
劉曜
五胡十六国時代の前趙の第5代皇帝。国号を漢から趙(前趙)に改めた。『晋書』劉曜伝によると、身長は9尺3寸、5尺の髭、白い眉、赤い瞳を持っていたという。...
東晋
中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年-420年)。西晋に対し史書では東...
劉和
友達
五胡十六国時代の漢(前趙)の第2代皇帝。後世の史家によっては廃帝和とも、帝和と称される。身の丈は八尺もあり、剛毅さもかねて凛とした容貌を持っていた。
劉豹
中国後漢末期から西晋時代の南匈奴の左賢王。南匈奴の単于於夫羅の子、前趙の劉淵の父。南匈奴で叛乱が起こったことで於夫羅が漢に留まり、196年に漢地で死ぬ...
劉裕
南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳與。幼名は寄奴。彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山県)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県...
建武
後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年-56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。この元号は、漢王朝を再興した際に初め...
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王弥
中国五胡十六国時代の漢(前趙)の軍人。劉淵の配下として洛陽攻略などの功績を挙げたが、石勒と対立して殺された。東莱出身。劉淵が洛陽で任子の時の友人で...
懐帝
懐帝(かいてい)は西晋の第3代皇帝。諱は司馬熾。字は豊度。初代皇帝武帝の第25子で2代皇帝恵帝の異母弟。
李特
李特(りとく)は五胡十六国時代の成漢の建国者の祖。武帝により追号された。
劉邦
前漢の初代皇帝(在位:前202年2月28日-前195年6月1日)。沛県の亭長<REF>亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと</REF>であったが、反秦連合に参加...
陳元達
中国五胡十六国時代の前趙(当初の国号は漢)の官僚。字は長宏。新興(山西省忻州)の人で、元来の漢姓は高氏だと伝わるが、匈奴姓は不詳。匈奴後部の族長の...
劉煕
五胡十六国時代の前趙の第6代皇帝。第5代皇帝・劉曜の子として生まれる。318年10月父の即位に伴い皇太子となった。323年に前涼が藩国になった後、靳準の乱で...
恵帝
恵帝(けいてい)は西晋の第2代皇帝。生まれつき暗愚であり、西晋に混乱をもたらした。
嘉平
三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた2番目の元号。249年-254年。嘉平6年は10月に改元されて正元元年となった。6年10月:斉王が廃立され、高貴郷公曹髦が即...
蔡エン
中国後漢末から魏初の詩人。字は文姫、または昭姫。陳留圉(現在の河南省杞県)出身。父は蔡&x9095;。才女のほまれ高く音律に通じ、また数奇な運命でも知られ...
南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。
プロフィール
劉淵とは
生涯
人物
后妃
子女
関連人物
参考文献
関連項目
劉淵(りゅうえん)は、五胡十六国時代の前趙の創建者。ただし、劉淵自身は国号を「漢」としている。
生涯
新興(現在の山西省忻州)出身。
一説に西河隰城(現在の山西省汾陽)出身ともされる。
匈奴攣鞮部(南匈奴の単于を輩出した一族)出身で
於夫羅
の孫、
劉豹
の嫡子。
生母は呼延皇后。
元勲で大司空の呼延翼は母方の叔父で、後に婿となる。
幼少の時に崔遊に師事し、漢民族の文化に通じ、文武兼備を自負した。
三国時代末期に人質として魏の洛陽に入った。
西晋の初年に父が高齢で没すると、跡を継いで匈奴左部帥となった。
西晋の外戚の
楊駿
が政務を執ると建威将軍・五部大都督となり、漢光郷侯に封ぜられた。
しかし、元康末の部人の叛乱の責任で免職になった。
成都王司馬穎は鄴に299年1月赴任すると上表し、行寧朔将軍・監五部軍事となった。
やがて八王の乱が起こり西晋が乱れると、従祖父の左賢王劉宣や腹心の
陳元達
らから秘かに大単于に推された。
304年8月、司馬穎の元で冠軍将軍となり、司馬穎に幽州都督
王浚
・并州刺史司
馬騰
討伐及び匈奴五部の協力を約束し、匈奴の居留地に
帰郷
、北単于・参丞相軍事に任ぜられ、離石で大単于となった。
10月、左国城に進み、漢氏の甥として自ら任じ西晋から自立、国号を「漢」と定め、漢王を称した。
司馬穎の死後は西晋との全面戦争となり、羯族の
石勒
・漢民族の
王弥
や従子の
劉曜
などを従え河東の平定に尽力、司
馬騰
及び匈奴拓跋部の族長
拓跋禄官
や西晋の将軍劉琨と戦った。
308年10月に皇帝を称し、永鳳と建元した。
翌年には平陽に都を移し、河瑞と改元した。
洛陽攻略を望んだが、志半ばにして310年に病没した。
『通鑑』によると、劉淵が危篤状態になった時に、太宰・陳留王の
劉歓
楽と太傅・江都王の劉洋と太保・長楽王の
劉延
年ら甥達を召し出して、自分の第3子である大司馬・大単于・録尚書事の楚王
劉聡
と共に力を合わせて、太子の梁王
劉和
を補政せよと言い残して逝去した。
劉淵は大志を抱き、寛容で英傑だったという。
従弟で同時に劉淵の妻の弟に当たる
呼延攸
は、叔父でもあり岳父の呼延翼の子であるが、劉淵は彼の無能で俗的な人格を忌み嫌い、決して要職に就けなかったという。
ところが劉淵の長男で呼延皇后が産んだ
劉和
は叔父の
呼延攸
と仲が良かったために、
呼延攸
を太尉という軍事長官職に就けて、彼の進言で異母弟の
劉聡
らを粛清する政務を実施したので、身の破滅を迎えたという。
果たして劉淵が懸念した通り、
呼延攸
は政治家としては無能だった所以である。
なお、唐の
太宗
の命により編纂された『晋書』では、
太宗
の父である高祖
李淵
の諱を避け、字を用いて劉元海と表記されている。
人物
生涯の項にも記すとおり、幼少時より学問を好み、『春秋左氏伝』『孫子』『呉子』は諳んじるほどであった。
だが同じ崔游門下の朱紀・范隆の「
随何
や
陸賈
には学問があっても武功が無く、絳侯(
周勃
)や潁陰侯(
灌嬰
)には武勇があっても学問が無かった。
だから
随何
・
陸賈
は高祖に仕えたが侯に封ぜられる活躍はできず、絳侯・潁陰侯は
太宗
に仕えたが人民を教導するような事はできなかった。
いずれしても惜しいことだ」というのを聞いて武芸の稽古にも励んだ。
そのため、よく強弓を引いて百発百中となった。
長じて身の丈8尺4寸(約193センチ)の長身となり、腕力においても敵う者が無いほどになったという。
鬚が3尺(約70センチ)余りで、真ん中に赤く細い毛が3本あり、その3本だけが3尺6寸(約83センチ)と、他より長かった。
后妃
武元皇后呼延氏(呼延翼の娘)。
光献皇后張氏(
張寔
の叔伯母)。
単皇后(単徽の娘)。
子女
楚王劉聰(劉戴、昭
武帝
)。
関連人物
西晋・
東晋
・後趙の人物は除く。
河内王
劉粲
(隠帝)。
高平王劉里。
零陵王劉皐。
九江王劉坦。
;甥・族子。
劉暉-
劉曜
の兄弟。
劉岳-
劉曜
の従兄弟。
;族子
劉曜
の子。
南陽王劉胤(母:元悼皇后)。
長楽王劉襲(母:同上)。
太原王劉闡(母:同上)。
;弟3子
劉聡
の妻。
参考文献
松丸道雄編『世界歴史大系中国史2』山川出版社、1996年。
三崎良章『五胡十六国中国史上の民族大移動』東方書店、2002年。
関連項目
五胡十六国時代。
劉淵 - Wikipedia
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