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劉璋
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219年
荊州
建安
劉闡
蜀書
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つながりの強いひと
張魯
後漢末期の五斗米道(後の正一教)の指導者。字は公祺。豫州沛国豊県の人。張陵の孫、張衡の子。弟に張衛ら。子は張富ら数名と女子(曹宇妻)がいたという。...
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後漢末期の政治家・儒学者。字は景升(けいしょう)。山陽郡高平県の人。前漢の景帝の第4子である魯恭王・劉余の子孫。後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠し...
孫策
孫策(そんさく、175年–200年)は中国の後漢末の武将。字は伯符(はくふ)。諡は長沙桓王。
張松
対立
後漢末期の政治家。字は子喬(『三国志演義』では永年)。張粛の弟、張表の父(あるいは叔父)(「馬忠伝」)。蜀郡の人。『三国志』では蜀志『劉二牧伝』『...
孫権
後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。...
劉焉
中国の後漢末期の政治家。字は君郎。江夏郡竟陵県の人。子に劉範・劉誕・劉瑁・劉璋。『後漢書』と『三国志』蜀志に伝がある。後漢末の動乱期において、各地...
劉巴
?-222年)は、後漢末期から三国時代の政治家。字は子初。祖父は劉曜、父は劉祥。
馬騰
後漢末期の軍人。字は寿成。祖先は後漢初期の名将馬援、父は馬平。蜀(蜀漢)の将軍馬超の父に当たる。
陸遜
後漢、中国三国時代の武将、政治家。初名は陸議。字は伯言(はくげん)。謚は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫、陸襃の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸...
黄忠
中国後漢末期から三国時代の将軍。字は漢升。諡は剛侯。子に黄叙。劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。三軍筆頭の勇者と評された勇将である。
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孟達
後漢末期から三国時代の軍人。字は子敬(しけい)、のちに子度(しど)。涼州扶風郡の人。父は孟他、子は孟興。甥に鄧賢。劉璋・劉備に仕え、蜀(蜀漢)の成...
劉範
後漢の宗室である劉焉の長男で、劉璋の異母兄。字は不詳。父の劉焉が牧として益州へ着任した後も、同母弟の劉誕と共に長安にあった。董卓によって左中郎将に...
劉誕
劉焉の次男で、劉璋の異母兄。字は不詳。父の命で、同母兄の劉範と共に長安に駐屯した。董卓によって治書御史に任命される。192年、董卓が殺害されると、董卓...
厳顔
後漢末期から三国時代の武将。益州巴郡臨江県の人。
雷銅
中国後漢末期の武将。劉備配下。
孟獲
孟獲(もうかく、生没年不詳)は中国の三国時代の蜀漢期の南方の豪族。
呉班
中国の三国時代の人物。蜀(蜀漢)の軍人。字は元雄。陳留郡の人。父は呉匡。
劉禅
三国時代の蜀(蜀漢)の第2代皇帝。
司馬師
中国三国時代魏の武将、政治家。字は子元。廟号は世宗、贈号は景帝。司馬懿の長子で、司馬昭・司馬幹の同母兄。生母は張春華(贈穆皇后)。
諸葛亮
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建...
プロフィール
劉璋とは
生涯
劉璋(りゅうしょう、?-219年(建安24年))は、中国の後漢末期の群雄。
劉焉
の子。家系は劉氏。字は季玉。
劉瑁
の弟。
生涯
劉焉
の少子(末の子)だったが、若い時に長兄の
劉範
や次兄の
劉誕
と共に長安の
献帝
の近侍として仕えていた。
献帝
は宗室の
劉焉
の暴走を諫めるために、劉璋を蜀に派遣したが、
劉焉
はこれを聞かずに劉璋を二度と都に戻さなかったという。
194年(興平元年)に兄達が相次いで亡くなったとこもあり、父・
劉焉
が病死した時にその世子として、後を継いで益州牧・監軍使者・陽城侯となる。
200年(建安5年)、自分に叛いた
張魯
の生母とその弟を見せしめのために誅殺した。
劉璋は、荊州・三輔出身の兵士である東州兵が民衆を侵害しても取り締まることができず、政令に欠けるところも多かったので、これらの事を不満に思う民衆は少なくなかった。
劉璋は趙韙にこの問題を解決させようとしたが、趙韙は民の怨嗟の心を利用して州内の豪族と手を結び謀反を起こした。
蜀郡・広漢・犍為の三郡は趙韙に呼応し、劉璋は窮地に陥ったが、東州兵の奮戦により趙韙の軍勢は撃退され、趙韙は配下に裏切られて斬られ、反乱は終結した。
曹操が荊州を制圧すると、劉璋は使者を派遣して曹操に敬意を表した。
曹操は劉璋に振威将軍の名称を与えた。
劉璋の重臣の中には野心家の
張松
・法正・
孟達
らがいて、彼等は既に劉璋の下では出世がおぼつかないと考え、これを見限り劉備を益州の牧として迎えるべく画策する。
この頃、益州にもようやく
張魯
や曹操らの脅威が迫りつつあった。
元々、戦が不得手であった劉璋は、このこともあって
張松
らの進言を聞き入れて、あっさりと劉備を蜀に入れることを許してしまう。
この時、
王累
や
黄権
や
劉巴
らが反対したが、劉璋は聞き入れなかった。
後に
張松
の兄の張粛の密告で
張松
の内通行為が露見すると、劉璋は
張松
を処刑して劉備と対立し、劉備は軍勢を率いて劉璋を攻撃した(入蜀合戦)。
鄭度が劉備軍を飢えさせるために焦土作戦を採るように進言したが、優柔不断で領民思いな劉璋は受け入れなかった。
劉璋の武将の
劉循
・張任らが懸命に抗戦したが、戦慣れした劉備軍の前に遂に敗れ、劉備軍は成都に迫った。
214年(建安19年)の夏5月の劉備の降伏勧告に対し、官民の多くは戦う覚悟であったが、劉璋は「わしはもはや領民を苦しめたくない」と言って決断し、降伏した。
降伏後、劉璋は劉備の命令で次男の劉闡と共に荊州の西部にある公安に移された。
長男の
劉循
は奉車中郎将として、成都に滞まってそのまま劉備の家臣となった。
219年(建安24年)、関羽が
呂蒙
によって殺され、荊州が
孫権
に奪われた時、劉璋はそのまま帰順して家臣となり、
孫権
に益州牧に任じられたが、間もなく病死した。
『三国志』の著者の
陳寿
は「劉璋は英雄としての才に乏しく、土地や官位を奪い取られたのは不幸とは言えない」と厳しい評価をしている。
劉璋 - Wikipedia
より要約
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