| はじめ大将軍の何進に仕えた。 |
| 霊帝死後に詔勅によって荊州刺史・王叡の後任に任じられ、劉表は任地に向かった『三国志』及び裴松之の注釈には、劉表に詔勅を下ったのがいつのことであり、詔勅を下したのは誰であるのかは明記されていない。 |
| 『三国志』魏書武帝紀などによると、霊帝の死去は189年4月の事であり、後漢朝廷の実権を掌握していた何進も、同年8月に宦官らによって殺害されている。 |
| 『後漢書』劉表伝によると、劉表に荊州刺史就任の詔勅が下ったのは、190年、荊州刺史王叡が孫堅によって殺害された後の事になっている。 |
| 『三国志』呉書孫破慮討逆伝によると、王叡は孫堅によって殺害されるまで荊州刺史の任にある。 |
| 同伝・注『王氏譜』によってもそれは同じである事が確認出来る。 |
| 『三国志』魏書董卓伝によると、190年当時、朝廷の実権を握っていたのは董卓となっている。 |
| 『三国志』蜀書劉焉伝・注『続漢書』によると、劉表が荊州牧になった時期を劉焉が益州牧となった188年だとする。 |
| 裴松之はこの記述に対して、劉表が荊州の長官となったのは、霊帝死後、王叡が孫堅によって殺された後だとする推測を述べている。 |
| しかし、長江南岸は土豪が割拠していたため、州治である漢寿に赴かず北部の宜城に入り、蔡瑁・蒯越・蒯良らと図って不穏分子を鎮圧し、荊州北部を支配下におさめる事に成功した。 |
| 『三国志』魏書劉表伝・注司馬彪著『戦略』の記述後に州治を宜城近くの襄陽現在の湖北省襄陽市北部にあたる。 |
| に移している。 |
| 初平元年(190年)、各地で反董卓の義兵が挙げられると、劉表もこれに加わった。 |
| 初平3年(192年初平2年(191年)の説もある)、袁術の意を受けた孫堅が荊州に侵入した。 |
| 劉表は黄祖に命じてこれを防ぎ、袁紹と同盟して対抗した。 |
| 黄祖は苦戦したが孫堅を討ち取り、荊州を守り抜いた。 |
| 初平4年(193年)、李らが実権を掌握する朝廷から、劉表は仮節・鎮南将軍・荊州牧に任じられ、また成武侯に封じられた。 |
| 同年、袁術と曹操が争うと、袁術の糧道を断ち、袁紹と協調関係にあった曹操を支援した『『三国志』武帝紀の記述。 |
| 張済は食料が不足したので、荊州の穣城を攻撃したが、流れ矢に当たって死んだ。 |
| 劉表は「張済は困窮したから荊州に来たのに、私が礼を尽くさなかったから戦争をすることになってしまった。 |
| これは私の本意ではない」と言い、旧張済軍を受け入れた。 |
| 旧張済軍はこの言葉を聞いて劉表に服従した。 |
| その後、曹操と袁紹は敵対するようになる。 |
| 劉表は引き続き袁紹に与して、旧張済軍の張繍と同盟を結び、曹操と戦った。 |
| 建安3年(198年)、曹操が張繍の駐屯する穣県河南省南陽周辺。 |
| を攻囲した。 |
| 劉表は援軍を送って曹操軍の背後を脅かすと、張繍とともに挟撃し、これを破った。 |
| しかし敗走する曹操を追撃する際、伏兵にかかって両軍とも敗れた。 |
| 建安4年(199年)11月、張繡は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。 |
| 建安5年(200年)、官渡の戦いに際して劉表は袁紹から救援を要請された。 |
| これに先立って、長沙太守の張羨が桓階の提案に従い、長江・湘江一帯の住民を扇動して劉表に背いていた。 |
| 劉表は張羨を討つべく自ら出征しており、結局袁紹に援軍を送らなかった。 |
| その後張羨は病死し、張羨の子の張懌が反乱を続けたが、劉表は反乱を鎮圧し、長江の南岸を勢力圏に組み入れた陳寿は劉表のこのような姿勢を、『三国志』魏書劉表伝の本文中において「劉表は袁紹には“援軍を送る”と約束しながら派兵せず、かといって太祖(曹操)に組するでもなく、長江・漢水流域を抑えつつ、天下の動向を観察していた」と記している。 |
| 建安6年(201年)、汝南から劉備が身を寄せて来ると、劉表はこれを受け入れた。 |
| 劉表は劉備を新野現在の河南省南陽市新野県に駐屯させ、曹操への備えとした。 |
| 建安8年(203年)、曹操が荊州へ侵攻し西平に駐屯した。 |
| すると、まもなく河北では袁譚と袁尚が争うようになった。 |
| 曹操は袁譚と同盟を結び、袁尚を攻撃するために撤退した。 |
| この戦いの前後に、劉表は劉備を博望に派遣し、夏侯惇・于禁らの率いる軍を退けている。 |
| 建安12年(207年)、曹操が遼東に遠征すると、劉備はその留守を狙うよう進言したが、劉表は進言を退け動かなかった。 |
| 建安13年(208年)、曹操が荊州に侵攻を開始。 |
| 劉表は曹操が荊州入りする直前に病死した。 |
| 享年67(65歳の説あり)この説を採ると、劉表の生年は144年という計算になる。 |
| 死後、庶子の劉琮が家督を継いだが、長子の劉琦も劉備によって江夏の主として盛り立てられた。 |