| ある時、劉邦は亭長の役目を授かり、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡し、やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がし、自らも一緒に行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。 |
| 紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「県令では誰も従わない、人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。 |
| 一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。 |
| 劉邦は一計を案じて絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(中国の都市は基本的に城塞都市である)。 |
| その手紙には「今、この城を必死に守った所で、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。 |
| そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。 |
| 今のうちに県令を殺して頼りになる人物(劉邦自身のこと)を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに答えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。 |
| しかし、劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。 |
| 自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。 |
| 他の人を選ぶべきだ」と辞退した。 |
| しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった。 |
| 以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。 |
| この時劉邦が集めた兵力は2、3千という所で、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊噲、劉邦の幼馴染で同日に生まれた盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。 |
| この軍団で周辺の県を攻めに行き、豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎に誘いをかけられて寝返ってしまった。 |
| 怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。 |
| 当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れたところを殺されており、部下の景駒が甯君と秦嘉という者に代わりの王に擁立されていた。 |
| 劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行く。 |
| 紀元前208年、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭トウ、現在の安徽省碭山。 |
| 碭は石偏に昜)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、更に下邑(河南省鹿邑)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めてやっと落とした。 |
| 豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。 |
| 張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧韓の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。 |
| 張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。 |
| ところが劉邦は出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた。 |
| これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。 |
| 劉邦と張良の関係は君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。 |
| その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧楚の懐王の孫を連れてきて楚王の位に即け、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる)。 |
| 劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。 |
| 項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯軍の前に戦死した。 |
| 劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した。 |
| 項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め、趙王の居城鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。 |
| そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。 |
| そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。 |
| 趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて3日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、一気にその勇名を高めた。 |
| しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、これも凄まじい虐殺を行う。 |
| このことは後の楚漢戦争でも項羽の悪評として人々の心に残り、多大な影響をもたらすことになる。 |