| 1947年に京都の、音楽とは全く縁のない"「作家で聴く音楽」第一三回加古隆"JASRAC、p1、2009年8月27日閲覧。 |
| 家庭に生まれ、大阪府豊中市旭丘で育つ。 |
| 音楽との出会いは小学校のとき。 |
| 知り合い宅に行った際、当時日本ではまだ珍しかったレコードプレーヤーと、1枚だけあったLPレコード。 |
| そのレコードを聴いた加古は大変心地よくなり、これを機にその知り合い宅へレコードを聴きたいがために、泊り込みで通うようになり、枕元にプレーヤーを置いて何度も何度も音楽を聴きながら眠った。 |
| この曲がトスカニーニ指揮、ベートーヴェン作曲の交響曲第5番『運命』であった「音楽との出会い〜軌跡」公式サイト、2009年8月27日閲覧。 |
| 以後、小学校から中学時代にかけて、クラシック音楽のレコード収集に熱中する。 |
| 音楽雑誌などの存在を知らなかった当時、唯一の情報源が駅前(阪急宝塚本線岡町駅前もしくは豊中駅前とされる)のレコード店であり、何度か訪れるうちに、店長に珍しがられ、いろいろなレコードを教えてもらった。 |
| 当時の加古には、「運命」が「クラシック音楽」であるという知識もなかったが、最初に出会った音楽がクラシックの名曲だったのは幸運だったと後に語っている。 |
| 豊中市立熊野田小学校の2年生だったとき、音楽の時間の合奏中、音楽の先生が加古の素質を見抜き、両親にピアノを習わせるよう強く勧める。 |
| 小学校6年のとき、ストラヴィンスキーの「三大バレエ組曲」(『火の鳥』『春の祭典』『ペトルーシュカ』)に出会う。 |
| これまでのクラシック音楽とは大きく異なる、現代音楽の魅力にとりつかれる。 |
| 中学時代は、今まで以上にクラシック音楽及び現代音楽に没頭。 |
| 当時は学校から帰り、ステレオの前に座って音楽を聴くことが無上の喜びであり、自身の全存在を捧げて聴き入っていたと語っているアルバム『海の伝説-私』のライナーノートに対談の詳細がある。 |
| 中学3年の頃、音楽が常に自分の身近にあることへの魅力と、将来どんな形で音楽に携わろうとも、根本である「作曲」を学んでおけば、まず間違いないだろうとの想い、そしてピアノの先生の「作曲家を目指すのも、夢があっていいと思う」という言葉が決め手となり、東京藝術大学作曲科への入学を決意。 |
| 本格的にピアノのレッスンを始める。 |
| 中学を卒業後、大阪府立豊中高等学校へ入学。 |
| 1年のとき、先輩に誘われて行ったアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのライブで、ジャズの刺激的な音に体を雷に打たれるほどの衝撃を受け、次の日からジャズのレコード収集に奔走。 |
| ジャズの演奏にも夢中になる。 |
| 1965年、東京藝術大学作曲科へ入学。 |
| その後約1年間は、作曲の勉強よりもジャズの演奏活動に夢中になっていた。 |
| 三善晃の指導をきっかけに作曲に魅力を感じ、作曲の勉強とジャズの両方をやっていてはどちらも中途半端になってしまうと思い、ジャズからは意識的に距離を置き、聴くこともやめ、現代音楽の作曲家を志す。 |
| 1969年、同大学院へ進学。 |
| 在学中の翌1970年には、自身の作品がNHK毎日音楽コンクール(現:日本音楽コンクール)作曲部門・管弦楽曲第2位を受賞するほか、翌年には「オーケストラの為の《構成》」が若杉弘指揮、東京フィルハーモニー交響楽団により初演される。 |
| 大学と大学院で合わせて6年間作曲を学んだ後、1971年7月、フランス政府給費留学生として渡仏。 |
| パリ国立高等音楽院で、ヨーロッパにおける音楽の歴史と伝統を肌で感じ、作曲のみならず音楽そのものを学ぶ。 |
| 翌年、「アルトとピアノのための《旅人と夜の歌》」・「オーケストラの為の一章」が、パリ音楽院管弦楽団により初演される。 |
| 留学先のパリ国立音楽院作曲科では、オリヴィエ・メシアンに師事。 |
| 留学してすぐの時点では、メシアンの講義に参加するつもりはなかったものの、参加しようと決めていた講師が前年に引退していたと分かり、アポなしでメシアンの講義に出向いた。 |
| 加古はメシアンから作曲に関する理論・技術にとどまらず、音楽家としてのプライドなど、音楽に関するあらゆることを学んでいった。 |
| メシアンは折に触れて、「加古君、あなたが日本人であることは、とてつもない財産なのです」と語っていた。 |
| そしてこの言葉が、西欧風の曲を主に書いていた加古に、自分の生まれ育った国である日本に目を向けさせるきっかけとなった。 |
| パリに留学して1年が経った頃、フリー・ジャズのレコードを収集していた友人の音楽評論家モーリス・グルグ宅で、今まで見たこともなかったフリー・ジャズのレコードを聴く。 |
| 現代音楽とフリー・ジャズの間に、何かしらの共通性を見出した加古は、これなら自分にもできると思い立ち、学校には籍を残したまま、1973年、豊住芳三郎らが参加するグループ「エマージェンシー」から、即興ピアニストとしてプロ・デビューを果たす。 |
| このことが以後、現代音楽分野における作曲活動と、ジャズにおける即興演奏活動の共存を生み出し、加古にとって、より広い意味での現代音楽の追求へとつながった。 |
| 1973年から、スティーヴ・レイシーらと共演。 |
| 翌1974年からは、アメリカからパリへ移ってきたアルト奏者ノア・ハワードのグループ「ノア・ハワード・クァルテット」に参加。 |
| 同年10月、沖至・高木元輝・堀本ユキ・佐藤允彦ら日本人のフリー・ジャズ・ミュージシャンとともに、ラジオ用コンサート「メッセージ・フロム・ジャパン」を開催。 |
| 「フルート・クラリネット・マリンバと打楽器の為の四重奏曲」がパリ国立ラジオ放送局から初演放送されるなど、現代音楽の作曲家としての活動も活発に行われた。 |
| さらにこの年には、ノア・ハワードのアルバム“NoahHowardLiveinEurope”に参加するほか、高木元輝とケント・カーターとのライブアルバム『パリ日本館コンサート』で日本デビューを飾るなど、目覚ましく活動。 |
| また、初のピアノ・ソロ・アルバム“NightMusic”を発表。 |
| モーリス・グルグは「現在フランスで聴くことのできる最高のピアニスト」(フランス・ジャズマガジン誌)と評した。 |
| 1976年1月、一時帰国し、豊住芳三郎との共演アルバム『パッサージュ』をリリース。 |
| 6月、パリ国立音楽院を審査員全員一致の一等賞を受賞して卒業し、これまでの自身の活動の総集編的アルバム『巴里の日』をレコーディング。 |
| 8月にはアルバム『マイクロ・ワールド』をリリース。 |
| 1977年、アルバム『海の伝説-私』を収録後、再びパリへ。 |
| 1978年7月5日、パリ・ポンピドゥー・センターで富樫雅彦と初共演。 |
| 2年後の1980年には、富樫が加古に捧げた曲「ヴァレンシア」を含む、アルバム『ヴァレンシア』をリリース。 |
| 1978年、ピアノ・トリオ「TOK」(トーク)を結成。 |
| バンド名は、メンバー3人(タカシ・カコ、オリバー・ジョンソン、ケント・カーター)の頭文字(Takashi、Oliver、Kent)をとって名づけられた。 |
| 同年6月には、日本におけるTOK第1回コンサートツアー"JazzConcertImprovisation"を行い、アルバム『TOK-LIVE』と『TOK・ダイレクト・マスター』を発表。 |
| コンサートツアー終了後の8月、日本において宮間利之&ニューハード・オーケストラと共演し、ジャズ・オーケストラに初挑戦。 |
| 翌1979年10月、日本人としては初めて、ドイツECMレコードから、アルバム『パラドックス』を全世界発売し、12月にはこれを記念して第2回TOKコンサートツアーを開催。 |
| 1979年の冬、天候の悪化で来られなくなったアーティストの代役として、急遽フランスのカーンで行われた音楽祭に出演。 |
| 音楽祭当日に電話が入り、しばらく考えた末、引き受けると返事をして、指慣らしもほとんどしないまま手元にあった楽譜を鞄に詰め込んで、列車に飛び乗った。 |
| 偶然開かれた新しい音楽への扉、その向こうにあったのは、加古にとって初となるピアノ・ソロ・コンサート。 |
| 翌1982年、第3回TOKコンサートツアー及び、東京での初のソロ・コンサートを東邦生命ホールにおいて開催し、以後、同ホールでのクリスマス・イヴ・コンサートが定着する。 |
| 1984年、東京文化会館において、同館主催のコンサート「加古隆・ピアノとの対話」を開催。 |
| クラシック音楽の殿堂が、ジャンルを超えたアーティストを初めて迎えたという異例の出来事とあって、700席の会場に3000以上の応募を記録した。 |
| 1985年2月26日、東京西武劇場(現パルコ劇場)でのソロ・コンサート当日の朝、音楽評論家野口久光の「一度でいいから、誰でも知っているメロディーを、取り上げてごらん」という言葉から始まった、新しい音楽への追求、その結果がここに完成した。 |
| しかし、完成した作品は当時の加古の音楽とは著しく性格を異にするものだったため、自分らしさを失うのではないかという思いから、この曲を初演すべきか否か、当日の朝まで迷っていた。 |
| しかしながら思い切って演奏に踏み切った後、世間の評価は別として、イングランドの民謡「グリーンスリーブス」をモチーフにした楽曲「ポエジー」をきっかけに、シンプルなメロディーの大切さを再認識し、音を丹念に選んでいく訓練を長く受けてきた自分にとっての「作曲」という作業に、新たな音楽の世界:自分らしさ、を発見する。 |
| 「ポエジー」がニッカウヰスキーのCF曲として使用され大ヒットとなった翌1986年、画家パウル・クレーの12枚の絵画の印象による代表作“KLEE”が完成した。 |
| これを皮切りに1988年、宮沢賢治の諸作品から着想を得た作品『KENJI』を発表し、翌1989年、ダンスとピアノとの共演作品『アポカリプス〜黙示録』を東京スパイラルホールにて初演。 |
| 1991年には、組曲“ESTANPESONORE”において、広重や北斎らの浮世絵の世界をピアノ・ソロで表現することに挑戦。 |
| また1993年に訪れた、北海道トマムの「水の教会」からの着想は、アルバム『水の前奏曲』に結実し、発表記念コンサートが「水の教会」において、設計者の安藤忠雄を迎えて行われるなど、絵画・文学・ダンス・浮世絵・建築といった、他の芸術とのコラボレーション作品が次々と誕生した。 |
| 1992年、国際交流基金主催アセアンツアーでシンガポール・ブルネイ・マレーシア・インドネシア・タイを歴訪した後、アルバム『風の画集』を発表。 |
| このアルバムのライナーノートには、「ジャズとかクラシックとか現代音楽とか名付けられた枠を定めずに、ただピアノから生まれる音楽だと思って、皆さんの感覚で受けとめて聴いて下されば最高です」という加古の文章がある。 |
| 1988年、村上秀一らと共演したアルバム『スクロール』で、スイングジャーナル社主催「日本ジャズ賞」を受賞。 |
| 1989年、アラビアの砂漠・北欧や凍ったシベリアの大地・アフリカへの憧憬といったモチーフを、民族楽器とピアノとの共演で大胆に描いた連作"Landscape"(ランドスケープ、「風景」の意)を、アルバム『幻想行』から発表し、カルガリー及びバンクーバーで開催されたカナダ音楽フェスティバルに参加。 |
| 翌1990年には、組曲『ピアノ交響詩《春〜花によせて〜》』を、大阪・国際花と緑の博覧会にて初演。 |
| 1993年、カーネギー・ホールでのソロ・コンサートでアメリカへデビューし、2年連続で自然をテーマにしたアルバム『水の前奏曲』『ノルウェーの森』を発表。 |
| 1995年には、パリの日本大使館において、翌1996年にはロシア・中国・インド・ネパール・スリランカを歴訪し、ソロ・コンサートを開催している。 |
| 2002年7月6日、東大寺において「大仏開眼1250年慶賛コンサート」に出演。 |
| NHKスペシャル「地球市場・富の攻防」の音楽を担当した2003年にデビュー30周年を迎え、12月に「AnniversaryYear〜巴里の日〜」コンサートツアーを行い、記念アルバム“Anniversary”を発表。 |
| この年に担当したドラマ『白い巨塔』では、主人公財前五郎の生き様を、エレキギターを用いた音楽で表現した。 |
| 2006年4月には、『水の前奏曲』から13年ぶりとなるアルバム『PIANO』を発表し、7月にはこれを記念してのコンサートツアー「PIANO」を開催。 |
| また、熊野古道の世界遺産登録からちょうど2年になる同月1日には、これを記念しての三重県からの委嘱作品「熊野古道〜神々の道〜」の世界初演コンサートが、三重県文化会館で行われた。 |