| 兄・種恭に読書、習字、弓術の指導を受けるとともに剣道は小谷精一郎、馬術は大坪本流磐井槍吉の指南を受けた。 |
| 老中格で幕閣参政として軍制改革に取り組む兄の影響を受けフランス兵学に興味を持ち、佐久間象山の高弟・蟻川功に師事して兵学を学ぶ。 |
| 慶応2年(1866年)、親戚筋に当たる上総一宮藩主・加納久恒が急死したのを受けて急遽養子となり19歳で一宮藩藩主となる。 |
| 新政府軍は主にイギリスから、列藩同盟軍は主にドイツから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていたこともあり国入り早々近習の侍を集めてフランス式操練を行った。 |
| 折りしも鳥羽・伏見の戦いが始まると海路出陣に京都に向かうが、大シケなどで伊豆下田で足止めとなり間に合わなかった。 |
| 維新後の版籍奉還により一宮藩知事となり、廃藩置県で免職。 |
| 留学に備えて大学南校(東大の前身、後の開成学校)でフランス語など西洋の社会・人文諸学を学ぶ。 |
| 周囲の反対で留学を断念し明治6年(1873年)文部省督学局に出仕、岩手県師範学校長、新潟学校長を歴任。 |
| 明治14年(1881年)には司法界に転じて熊谷始審裁判所長、大審院検事、東京控訴院検事などを務める。 |
| 明治17年(1884年)、子爵。 |
| 明治22年(1889年)、大日本帝国憲法の発布、議院法と貴族院令が公布されると上院(貴族院)において有爵者の任務を研究する「子爵同志研鑽会」の発足にかかわった。 |
| 明治23年(1890年)、子爵の互選により兄の種恭とともに帝国議会貴族院子爵議員に選出され、明治30年(1897年)7月まで務める。 |
| 第1回議会(明治23年(1890年))では弁護士法委員、両院交渉事務規定特別委員に選出されている。 |
| 第2回議会(明治24年(1891年))では予算委員(第二科 外務省・司法省)、帰化法案特別委員に選出されている。 |
| 会派が形成される以前でしたが、積極的に会合(「同士会(加納有志会)」)を定期的(月2回)にもっている。 |
| その後、侯爵中山孝麿が中心となっているグループ(有志者会)と合併するがやがて脱退し無所属となった。 |
| 明治27年(1894年)から明治33年(1900年)まで鹿児島県知事を務め不偏不党の方針を掲げ農業、水産、土木、教育の諸事業に積極的に取り組み農会の設置と系統化を通じた農業の近代化と生産力の向上、特産品の奨励、鹿児島港の近代化に尽力しめざましい成果を挙げる。 |
| 教育の面でも明治27年(1894年)に内村鑑三、新渡戸稲造と東京英語学校で同学で札幌農学校でクラーク博士に学んだ岩崎行親を知事顧問として招へいし中学校の増設、高等学校(現鹿児島大学)の創設などに努めた。 |
| 知事の肩書きにとらわれない気さくな性格で県民から慕われ、西南戦争後の政争と荒廃の中から今日の鹿児島県の基礎を築いた知事として地元から高い評価を受ける。 |
| 明治35年(1902年)、全国農事会幹事長。 |
| 明治43年(1910年)、帝国農会の初代会長に推され農業生産力の拡大に尽力するなど全国の農政にも深く関与。 |
| 一方で全国農事会の機関誌において産業組合運動の普及宣伝にも情熱を注ぎ、全国を遊説し普及活動に努める。 |
| 明治35年(1902年)7月に英国の協同組合を見本に大森山王の自邸を事務所に夫人と2人で手作りで帳簿を揃えて、都内最古の入新井信用組合(現:城南信用金庫入新井支店)を設立。 |
| 全国に信用組合の模範を示す。 |
| また学務委員として地域の教育振興にも努め、村民から慕われる。 |
| 明治37年(1904年)、日本体育会(体操学校・現日本体育大学)会長(校長)として荏原中学(現在の日体荏原高等学校)を設立。 |
| 同年7月、再度、貴族院子爵議員に選出され死去するまで在任。 |
| 明治38年(1905年)、産業組合運動の振興のため入新井信用組合と全国農事会の主催により全国産業組合役員協議会(後の全国産業組合大会)を開催し自ら座長を務める。 |
| 同年大日本産業組合中央会副会頭に就任(会頭は平田東助)。 |
| 明治39年(1906年)、安田伊左衛門などとともに東京競馬会の発足に尽力。 |
| 日本人による初の馬券付き競馬を東京大森の池上競馬場にて開催。 |
| 明治43年(1910年)には、東京競馬会・日本競馬会・京浜競馬倶楽部・東京ジョッケー倶楽部を統合して東京競馬倶楽部が設立され初代会長に就任。 |
| 明治45年(1912年)に清浦内閣成立の折には農林大臣就任が要望されたが地元一宮町民の熱望により一宮町長に就任、その任期中特に農業畜産の振興、耕地整理による基盤整備、名士の別荘招致、海水浴場創設と植林、青年会等各種団体の育成、一宮女学校開設他多数の事業を力強く推進した。 |
| 大正6年(1917年)、町長退任後も名誉町長格で毎日役場に出勤していた。 |
| 同年、一宮町の農業青年70人を率いた大視察団とともに鹿児島県を訪れる。 |
| 鹿児島入りしたときは、駅頭黒山の歓迎陣でうまった。 |
| まずいったのは「昔植えたミカンを早く見たい」であった。 |
| 大正8年(1919年)2月26日、避寒療養先の大分県で亡くなる。 |
| 「地方自治の恩人加納子逝く一昨夜別府で享年七十有四」と、東京日日新聞(2月28日)は報じている。 |
| 葬儀は3月6日、東京谷中斎場で行われ加納家墓地に葬られる。 |
| 遺言は「一にも公益事業、二にも公益事業、ただ公益事業に尽くせ」。 |
| 晩年の家庭の話題は鹿児島のことばかりで「もし我輩が亡くなっても鹿児島のことで話があったら冥土に電話せい」が口癖であったという。 |
| 大正11年(1922年)には偉業、威徳を慕う一宮町民多数の懸請により町を見下ろす城山に分骨を納めた「加納久宜公の墓」が建立されている。 |
| 墓前には、昭和18年(1943年)に鹿児島県知事加納久宜顕彰会からの寄贈による薩摩風石灯籠一対もある。 |
| 町民の要望により、分骨されている。 |
| 昭和18年(1943年)に鹿児島県では記念行事がもたれ、加納知事顕彰会より鹿児島県庁跡に記念碑が建てられ一宮町の加納公の墓に薩摩灯篭が奉納されている。 |
| 官位は従五位下、遠江守、子爵。 |