| 200px|thumb|加藤清正進路(青線)。 |
| 200px|right|thumb|加藤清正朝鮮陣書状(1594年)。 |
| 文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。 |
| 文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置いた。 |
| 同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。 |
| 漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。 |
| その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定。 |
| 現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。 |
| 更に清正は朝鮮の国境豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻した。 |
| しかし当地は明への侵攻路から外れている上に得る物が乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き上げ、咸鏡北道を帰順した現地朝鮮人の統治域とし、日本軍は吉州以南に布陣した。 |
| 日本軍の去った咸鏡北道では朝鮮人の義兵が起こり、吉州を攻撃したがこれを撃破する。 |
| その後、明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられ咸鏡道を引き払い漢城に入った。 |
| 文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久・飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。 |
| 明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。 |
| だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。 |
| このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長・石田三成らは、清正が講和の邪魔になると見て、彼を秀吉に讒訴。 |
| 清正は京に戻され謹慎となる。 |
| 増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。 |
| しかし慶長地震の際、秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許された。 |
| 慶長2年(1597年)からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となる。 |
| 再び朝鮮に渡海する際、行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしている。 |
| しかし敵の李舜臣はこれを罠だと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けなかった。 |
| 日本軍の作戦目標は先ず全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道へも進撃することと、その達成後は後退して拠点となる城郭群を建設することであった。 |
| 二月二十一日付朱印状(立花文書他)西生浦倭城を発った清正は全羅道に向かって西進し、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。 |
| 次に忠清道鎮川まで進出し、ここに最初の作戦目標を達成した。 |
| 日本軍の諸将は築城予定地まで後退。 |
| 清正は西生浦倭城の東方に新たに築城される蔚山の地に入り、自ら縄張りを行った後、加藤安政等を配備して西生浦倭城に移った。 |
| 蔚山倭城の建設は帰国予定の浅野幸長と宍戸元続等の毛利勢(毛利氏は他に梁山倭城の築城も担当)が担当した。 |
| 加藤清正は西生浦倭城に加え蔚山倭城の守備担当であった。 |
| 慶長2年(1597年)12月、完成が間近に迫った蔚山倭城へ57,000人の明・朝鮮軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると、清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。 |
| 未完成で水も食糧も乏しい状況で、毛利秀元や黒田長政等の援軍の到着まで明・朝鮮軍の攻撃に10日ほど耐え、この戦いを明・朝鮮軍に20,000人明史・朝鮮伝の損害を与える勝利へと導いた。 |
| 慶長3年(1598年)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるが、この時には城も完成しており、前回ほど苦戦せずに撃退した。 |
| 清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた。 |
| なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。 |
| セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。 |
| 京都市左京区の大徳寺総見院には清正が朝鮮より持ち帰ったとされる朝鮮石を彫り抜いて作られた掘り抜き井戸が残る。 |