| 家庭の厳しい経済事情から同中学卒業後は直ぐに名古屋の玩具問屋へと集団就職。 |
| その後は兄を頼って大阪へ移り、寿司店の住みこみ店員や鉄工場の住みこみ工員など職を転々とする。 |
| 家電メーカーの工場に勤めていたある日の休憩時間に工場の食堂にあるテレビで初めてジャニーズを視て「俺なら得意のアクロバットを駆使してもっともっと人気スターになれる」と確信し、きっかけを求めジャズ喫茶を彷徨い歩く。 |
| そして、当時大阪にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」にてスリーファンキーズのステージを鑑賞した際に北は、自ら頼み込んでスリーファンキーズのバックバンド「ワゴンスターズ」のバンドボーイにして貰い、その後バンドが帰京する為1964年の暮れに新幹線で上京する。 |
| 翌1965年の正月、日劇ウエスタンカーニバルでスリーファンキーズのショーの合間にやっていた映画をステージの裾で一人観ていた際にジャニーズ事務所の社長・ジャニー喜多川に見初められ「君、ジャニーズが好きなの?それじゃあジャニーズに会わせてあげるよ!」と楽屋へ誘われ、ジャニーズの付き人になることを快諾、その日より四谷三丁目のお茶漬け屋2階にあったジャニー喜多川の自宅兼合宿所で住み込みを始める。 |
| 付き人生活を続けていたある日、ジャニー喜多川より「北公次」という芸名を授かる、喜多川の“喜多”が由来。 |
| そして1966年10月、フォーリーブス結成に参加。 |
| 1968年、『オリビアの調べ』でレコードデビュー。 |
| 歌って踊れるアイドルのスタイルを確立し、1970年から7年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場するなど、この時代を代表する男性アイドルグループとなった。 |
| 他のメンバーは青山孝、江木俊夫、おりも政夫。 |
| また北はステージでバック転を披露した最初の歌手である。 |
| ジャニー喜多川が他の事務所に先駆けていち早く導入したビデオレコーダーでレッスンビデオをリピートしながら練習するほどダンスに対し熱心な姿勢を見せていた。 |
| しかしフォーリーブス現役時も解散後も共々、当時の関係者や専門家やマスコミが北のダンスを評価する発言や記事は登場する事はなかった。 |
| 1990年代にNHK-BS2で放送された『時代を駆ける栄光のアイドル達』(1992年8月放送)や雑誌『BRUTUS』で、長年フォーリーブスのダンスや振り付けに関わってきた西条満や『ブルドッグ』を振り付けした土居甫が、過去のジャニーズやフォーリーブスのダンスやアクションについてコメントしていたが、北のダンスに関する評価は無かった。 |
| ステージにおいても特にダンスでメインになることもなく、その方面の活動もないままであった。 |
| デビュー曲を始めフォーリーブスの多くの楽曲の作詞も担当した(のちに自著で多くは代作だったと述べている)。 |
| 単独でもテレビドラマ『ボクは女学生』(1973年)等に主演するなどの活躍をした。 |
| 尚、このドラマに続く主演作『ボクは恋人』で共演した人気子役の杉田かおるは、後に自著『すれっからし』やトーク番組にて、「友人知人から預かった色紙を渡して北にサインを頼んだ所、目の前で色紙をゴミ箱に捨てられた」というエピソードを発表している。 |
| 1970年代後半になるとニューミュージックに人気が集まり男性アイドル冬の時代に突入、フォーリーブスの人気も下降しジャニーズ事務所も低迷期に陥り、1978年8月31日に解散した。 |
| 4人の中で北が唯一解散に反対したともいわれる。 |
| その後の逮捕時の報道や本人のインタビューによると、1975年から覚醒剤の常用を開始。 |
| フォーリーブス解散までのグループ末期の3年間は覚醒剤を1日も欠かさず摂取する中毒状態であり、当時から当局にマークされていた。 |
| また、覚醒剤を必要とする度に購入資金をメリー喜多川から貰っていたと答えている。 |
| 1970年代半ば頃から『ボクは女学生』、『ボクは恋人』といったアイドルドラマ以外でも、俳優としての仕事が増えていった。 |
| 連続テレビドラマ『美しき殺意』(1976年、TBS)に主演、第1作目に出演した元ジャニーズのあおい輝彦に引き続き、石坂浩二主演の映画版金田一耕助シリーズ第2作『悪魔の手毬唄』(1977年)に出演、連続ドラマ版『人間の証明』(1978年、TBS)にレギュラー出演など、北を大人の役者へ転身させようとする当時のジャニーズ事務所の意向が伺えた。 |
| しかし主演作品は30分枠のテレビドラマ『ボクは女学生』、『ボクは恋人』のみ。 |
| 連続ドラマレギュラー出演も、『美しき殺意』や『人間の証明』くらいしかなく、結果的に俳優としては出演作も本人も話題になったとは言い難かった。 |
| 世間からの俳優としての認知や人気の上昇、フォーリーブスの人気回復には繋がらず次第に役柄も小さくなっていき、俳優としてのジャニーズ事務所在籍最後の仕事は『江戸川乱歩『暗黒星』より・黒水仙の美女』(1978年、テレビ朝日)であった。 |
| 解散と同時にジャニーズ事務所を退社。 |
| 1989年発行の雑誌『牧歌メロン』に掲載された北公次と平本淳也らのインタビューによると、北が事務所を退社する意向を副社長のメリー喜多川に伝えたところ猛烈に反対された。 |
| メリー喜多川はソニーレコードのプロデューサーを呼び出し、ジャニーズ事務所に残って欲しいと二人がかりで北を説得する。 |
| しかし北は説得を振りきりジャニーズ事務所を辞めたと北本人が語っている。 |
| ジャニーズ事務所を離れた後はダンス修行目的で渡米。 |
| しかし上手く目的を果たせず帰国後、第一プロダクションへ移籍。 |
| 芸能活動復帰に向けての準備に忙しい日々だったが、フォーリーブス在籍時に北と交際していた女性ファンの夫に、妻との不倫を週刊誌上で訴えられ、ホテルでの数々の逢瀬やその際の覚醒剤常用についても明らかにされる騒動が浮上。 |
| 解散翌年の1979年4月に覚醒剤取締法違反で逮捕された。 |
| 釈放後に出身地の和歌山県田辺市に帰郷してに漁業組合に就職したがしばらく勤務した後に退職。 |
| まもなく芸能界へ復帰。 |
| ジャニーズ事務所時代の芸名をそのまま使用するなど復帰には特に問題なく、俳優としてテレビドラマや舞台に顔を出すようにはなったものの、単発ドラマに数本出演する程度の細々とした活動で終わっている。 |
| しかし1983年、北のファンであった金子正次のオファーを受け、映画『竜二』に出演。 |
| 桜金造と共に主人公の子分役を演じた。 |
| 主演の金子が公開直後に急逝した事でも伝説的な扱いとなった本作だったが、作品及び主演・脚本の金子正次や助演女優の永島暎子は数々の賞に選ばれ一部で高い評価を受けたものの、北は大して話題にならず、この映画をきっかけにコメディアンから俳優業に進出していった桜とは対照的に、その後の映画やテレビドラマにおける俳優活動は1988年に制作・公開された映画『フライング飛翔』のみであった。 |
| その作品には当時のジャニーズ事務所所属グループ「男闘呼組」の高橋一也も出演している。 |
| またジャニーズ事務所を辞めた直後から不定期にライブハウスで行っていたライブ活動も次第に開催が難しくなり数年で途絶えてしまう。 |
| 芸能界復帰後、国内線勤務の客室乗務員の女性と入籍。 |
| 経済的には妻に頼る事になった上に子供を抱えた生活は苦しく、妻の負担も大きかった為、1988年に離婚。 |
| その後は地元の和歌山県田辺市に再び帰郷して白浜温泉のスナックなどでアルバイトをしていた。 |
| ジャニーズ事務所を糾弾する為、各所を奔走してジャニーズの裏情報を募集していたAV監督の村西とおるから復帰話を持ちかけられる。 |
| しばらく村西の元でマジシャン修行などをするも、北が村西の元を去ったことにより復帰話は一時頓挫する。 |
| しかしその事をきっかけに1988年11月にデータハウスより半生記『光GENJIへ』を出版。 |
| 本作の主な内容は、ジャニー喜多川の男色趣味などジャニーズ事務所に関する暴露と、自分の仕事面や実人生でのこれまでの転落や不祥事や不調はジャニー喜多川とジャニーズ事務所にあると結論付けるジャニーズ批判と、自分の芸能界復活や再デビューを予告する内容だった。 |
| ジャニーズに関する暴露や批判以外の記述は1975年発行の自伝『256ページの絶叫』と重複である為、明かにジャニーズ事務所とジャニー喜多川についての暴露や批判を目的で発行された書籍であった。 |
| また現在に至るまで連綿と発行が続いている、ジャニーズ事務所に関する暴露本、批判、糾弾本のきっかけとなる最初の一冊でもあった。 |
| 同書はベストセラーとなりシリーズとして全10冊を数えたが、『光GENJIへ』シリーズをはじめとするジャニーズへの暴露や批判活動に関する報道は、一部の雑誌やスポーツ紙を除き在京TV局、ラジオ局ではほぼなかった。 |
| 翌1989年にはバンド「SCARFACE(中野重夫Band)」も結成し、ライブ活動を中心に歌手活動を再開。 |
| ジャニーズ事務所やジャニー喜多川、メリー喜多川に対する批判・撲滅目的のイベント「ウィー・アー・ザ・ジャニーズ」開催やCD及びビデオの出版を続けていた。 |
| また一部の雑誌やスポーツ紙からの取材依頼も受け、ジャニーズ事務所やその合宿所、ジャニー喜多川とメリー喜多川両人の実態に関する暴露や批判、自分達の活動を宣伝するインタビューが各雑誌に掲載された。 |
| 当時の女性週刊誌『微笑』や東京スポーツとは協力関係にあり、両誌は度々ジャニー喜多川やジャニーズ事務所を批判するキャンペーン記事を組んでいた。 |
| 1994年に一時引退するまで、これら一連のジャニーズ事務所やジャニー喜多川に対する暴露および糾弾活動を北は「戦い」と称していた。 |
| 『光GENJIへ』出版後に“個人名義”で出演したTV番組は、フォーリーブス再結成後も含め、データハウスを離脱してから出演したテレビ神奈川の音楽番組の最終回と、『光GENJIへ』が世間の話題を呼んでいた時期に出演した関西ローカル局のみで放送されたバラエティ番組の2回のみである。 |
| 2007年にソロアルバムを発売した時もメディアにおけるPR出演は女性週刊誌のインタビュー記事のみであった。 |
| また、同書が出版された直後にジャニーズ事務所所属のアイドルのCDの売上が軒並み落ちている。 |
| 例外は田原俊彦の『教師びんびん物語』シリーズの主題歌を初めとした数曲のみであった。 |
| 売上低下に対抗して、光GENJIは7パターンのジャケットとメッセージカードを封入したシングル『太陽がいっぱい』を発売するも、全盛期の売上には届かず。 |
| 少年隊もデビュー5年目の1989年にリリースされたシングルは『まいったネ今夜』のみとなり、以後、急激にCDリリースのペースが落ちていく。 |
| その後に到来したバンドブームの盛り上がりと共に歌番組やアイドル番組が次々終了していき、それから数年の間、TVでジャニーズ事務所所属のアイドルを見かける機会は以前に比べて確実に減少し、ゴールデンタイムの人気番組で華々しく扱われる事も少なくなった。 |
| データハウスと折り合いが悪くなり離脱した後の1990年に、週刊宝石のインタビュー記事にて、次のジャニーズ内幕暴露本を出すつもりなので出版社を探している、印税はCDやビデオの制作費やライブ開催に注ぎ込んだが採算が取れなかった、現在はきちんとした固定収入がないのでアルバイトしたい、主演する独立プロ制作映画の撮影に入る、離婚した妻子が戻ってきて再び入籍した、二人目の子供が生まれた、など近況を語っていた。 |
| ジャニーズ事務所に対する暴露本出版を「戦い」と称するなど、データハウスで活動していた頃と変わらない姿勢を見せた。 |
| 暴露本出版以後も、ジャニーズ事務所在籍時の芸名のままで映画・ビデオ出演やライブ活動を続けていたが、当初は物珍しさでライブに来ていた客が次第に来なくなっていく。 |
| その後はブティックや喫茶店などを開店し、再結成までの間、ブティック、雑貨店、喫茶店を妻と経営、店の経営が悪化した後は介護ヘルパーやポスティングといったアルバイトをして生計を立てていた。 |
| 1999年から2000年にかけ、週刊文春がジャニーズ事務所社長のホモセクハラ疑惑などジャニーズ事務所を批判するキャンペーンを展開。 |
| 往年のファンからの支持を受け、2009年に青山孝史の急逝を経た同年3月29日の無期限活動休止まで、ライブ中心に活動した。 |
| 2006年8月12日、NHK『第38回思い出のメロディー』に出演、57歳にして得意のバック転も披露した。 |
| 続いて翌2007年1月『徹子の部屋』にもメンバー揃って出演したが、北個人でのテレビ、ラジオ出演は相も変わらず途絶えている。 |
| 再結成をした年の2002年、北と青山の二名がフォーリーブスとして『快傑えみちゃんねる』に出演したが、2007年7月に同番組にフォーリーブスとして出演したのは青山とおりも政夫の二名であった。 |
| 同じく2007年8月に放送された『熱狂的ファンツアー』ゲスト出演も、フォーリーブスと称していたが実際に出演したのはおりもと江木俊夫の二名だけだった。 |
| 2009年1月のディナーショーを最後にライブ、コンサートの類や歌手活動はほぼ行われておらず、ファンクラブ会員を対象とした有料イベントや、ファンクラブ会員のみが入会できる会員制ストレッチ教室のみのクローズドな活動のみとなった。 |
| 1980年代より、左耳の耳たぶにピアスの穴を一つ開け、左腕の二の腕には洋物のタトゥーを入れている。 |
| フォーリーブス在籍時に、芸能誌や少女漫画誌の誌面で、他のメンバーに比べて歯が弱く、常時虫歯が4~5本あるがなかなか治療に行けない事を語っていたが、一時引退を経て1980年代に俳優として復帰した時点で既に総入れ歯となっていた。 |