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プロフィール
北条夫人(ほうじょうふじん、永禄7年(1564年-天正10年3月11日(1582年4月3日))は、相模国 北条氏康の6女とされているが、氏康の子女で生年が判明しているのは 北条氏規と、この 北条夫人の2名だけであるので長幼の順は定かではない。甲斐国主 武田勝頼の継室。名は不明。
略歴
| 武田氏と北条氏は駿河の今川氏を含めて三国同盟を形成しそれぞれ婚姻関係を持っていたが、武田信玄の駿河侵攻を契機に甲相同盟が解消され、婚姻関係も解消されていた。 |
| 信玄晩期には甲相同盟の回復が志向され、勝頼期には天正3年(1575年)の長篠の戦いによる敗退で領国の動揺を招いていたため、天正5年(1577年)1月22日に北条夫人は勝頼正室として嫁いだ。 |
| 天正6年(1578年)に越後国で上杉謙信が死去すると後継者を巡る御館の乱が発生し、勝頼も当初は、夫人の実兄である北条氏政の要請もあり、同じく夫人の実兄にあたる上杉景虎を支持していたが、上杉景勝方が乱を制すると勝頼は外交方針を転換して景勝と甲越同盟を結び、乱に敗れた景虎が自害に追いやられたことで甲相同盟の破綻を招いた。 |
| 甲越同盟は軍事同盟として有効に機能しなかったため天正10年(1582年)2月1日には織田・徳川連合軍の甲斐侵攻を受け、河内領主の穴山信君ら一部家臣団の離反も招いた。 |
| 同年2月19日に夫人は勝頼のために武田家の安泰を願い、武田八幡宮に願文を奉納している。 |
| 同年3月には戦況は悪化し、勝頼は相模国と接する郡内領主小山田信茂の居城の岩殿城を目指して落ち延びたが、信茂が離反すると笹子峠において織田軍に襲撃され、一行は天目山に逃れた。 |
| 3月11日に日川渓谷の天目山の近くの田野で、滝川一益の軍に発見され、勝頼らと共に自害した。 |
| 辞世の句:「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき思いに消ゆる露の玉の緒」。 |
| 『小田原北条記』では「先年、わが弟の越後三郎(景虎)危急の時、私から色々嘆願したにも関わらず、あなたはお聞き入れになりませんでした。 |
| 今更命が惜しいと、何の面目があって小田原に帰れましょうか。 |
| 」と最期に語り、北条家に顔向けできないと恥じ入って自害したと記している。 |
| 「帰る雁 頼む疎隔の言の葉を 持ちて相模の国府(こふ)に落とせよ」(南に帰っていく雁よ、長い疎遠の詫び言を小田原に運んでくれないか)という、もう一句を残した。 |
| 法名は北条氏供養で桂林院殿本渓宗光。 |
| 武田氏からは「法泉寺位牌」で陽林院殿華庵妙温大姉、「景徳院位牌」に北条院殿模安妙相大禅定尼と贈られている。 |
| 勝頼の3女、次男、3男の母であるという説もあるが上野晴朗『定本武田勝頼』、『甲乱記』には子供はひとりもいなかったと記されている。 |
人物
| 山梨県身延町の南松院には恵林寺住職快川紹喜の遺墨である蘭渓字説(県指定文化財、現在は山梨県立博物館に寄託)が残されている。 |
| これは「甲州城上淑女君」の侍局に対し法諱雅号を与えその由来を記したものであるが、この淑女君は北条夫人を指していると考えられており、「家語に曰く、善人と居るは芝蘭の室に入るがごとし、久しくしてその香を聞かざるも、自然これと化す。 |
| 善人あに異人ならんや、淑女君是なり」と淑徳を称えている。 |
参考文献
| 黒田基樹『戦国北条一族』2005年、新人物往来社、ISBN440403251X。 |
| 黒田基樹『北条早雲とその一族』2007年、新人物往来社、ISBN978-4-404-03458-8。 |
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1577年
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北条夫人は勝頼正室として嫁いだ |
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1578年
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越後国で上杉謙信が死去すると後継者を巡る御... |
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