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プロフィール
- 北条早雲とは
- 名称と生年
- 出自
- 幕府申次衆・奉公衆
- 駿河下向
- 伊豆討入り
- 小田原城奪取
- 相模平定
- 早雲の出自と生年の論争
- 出自に関する論争
- 現況
- 関連サイト
北条早雲/伊勢盛時(ほうじょうそううん/いせもりとき)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった 後北条氏の祖である。伊勢宗瑞(いせそうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。
名称と生年
| 諱は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている。 |
| 通称は新九郎(しんくろう)。 |
| 号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。 |
| 伊勢家が北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱の時であるが、通例では伊勢盛時も遡って「北条早雲」と呼ばれる。 |
| 従って、盛時の存命中に「北条早雲」の名が使われたことは一度もない点に注意する必要がある。 |
| 生年は長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに康正2年(1456年)説が提唱されて有力視されつつある。 |
| これらの点に関しては、早雲の出自と生年の論争節に詳述する。 |
| なお、この項目での呼称は便宜上「(北条)早雲」で統一する。 |
出自
| 一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。 |
| しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である。 |
| 1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中に居住した支流で、備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって備中荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であることがほぼ確定した。 |
| 幕府申次衆の書状と駿河関連の書状において照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった。 |
| 従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した。 |
| 近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。 |
| 早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。 |
| 決して身分の低い素浪人ではない。 |
| 早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、若年時はここに居住したと考えられる。 |
| 荏原荘には文明3年(1471年)付けの「平盛時」伊勢氏は桓武平氏の平維衡の末裔であり、本姓は平氏。 |
| の署名の禁制が残されている(ただし、花押が後のものとは異なる)。 |
| さらに、備中からは大道寺氏、内藤氏、笠原氏など後北条氏の家臣が出ている。 |
幕府申次衆・奉公衆
| 応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。 |
| 義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている。 |
| その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる。 |
| 早雲が素浪人とされていた頃は北川殿は側室であろうとされていたが、備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られている。 |
| 文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。 |
| 京都で早雲は将軍義政の弟の義視に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年-1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に走っている。 |
| このため、これを疑問視する見方もある。 |
| 「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れる。 |
| 文明15年(1483年)に9代将軍足利義尚の申次衆に任命されている。 |
| 長享元年(1487年)奉公衆となる。 |
| 京で幕府に出仕している間、早雲は建仁寺と大徳寺で禅を学んでいる。 |
駿河下向
| 文明8年(1476年)、今川義忠は遠江の塩売坂の戦いで西軍の遠江守護斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。 |
| しかし、遠江の政情は複雑で、近年の研究ではこれらの国人は東軍の斯波義良に属するものだと考察されており、義忠は同じ東軍と戦っていたことになってしまう。 |
| 残された嫡男龍王丸は幼少であり(異説あり)、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。 |
| これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させた。 |
| 範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も史料に範満の「合力」と記されている。 |
| 龍王丸派にとって情勢は不利であった。 |
| 北川殿の弟(または兄)である早雲は駿河へ下り、調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。 |
| 上杉政憲と太田道灌も撤兵させたこの時に道灌と会談したという話もある。 |
| 旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった。 |
| 両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。 |
| 家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城(焼津市)に身を寄せた。 |
| 従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている。 |
| 今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、上述の通り9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。 |
| この最初の駿河下向と家督争い調停については、黒田基樹は新説による早雲の推定年齢の若さ(20歳)と、事件に付いて記している『鎌倉大草紙』には早雲の名が見えないことから考えて、このエピソードの実在に疑問を呈している。 |
| 早雲の駿河下向については以下のようなエピソードが知られている。 |
| 『北条記』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという、三国志の桃園の誓いのような話が残っている。 |
| 『公方両将記』には、陸奥国へ下ろうとしていた早雲は駿河の薩埵峠で盗賊に遭い身ぐるみはがれて難渋していたところを守護の奥方の輿と出会い衣服を与えられた。 |
| 文明11年(1479年)、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。 |
| 長享元年、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。 |
| 同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。 |
| 早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)と所領を与えられた。 |
| 駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は甥氏親を補佐、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている。 |
| この頃に早雲は幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、嫡男の氏綱が生まれている。 |
伊豆討入り
| 早雲が堀越公方足利政知の子茶々丸(11代将軍足利義澄の兄弟)を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされている。 |
| 政治が腐敗した京都を捨てて、関東の沃野に志を立てたように描かれてきた早雲だが、中央の政治と連動した動きを取っていることが近年になって家永遵嗣などの研究で分ってきた。 |
| 享徳の乱で鎌倉公方足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を攻めて占領。 |
| 成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦った(享徳の乱)。 |
| 将軍義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の政知を送るが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆北条に本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになった。 |
| 清晃は出家して京にいたが、政知は勢力挽回のために日野富子や管領細川政元と連絡してこの清晃を将軍に擁立しようと図っていたとの噂があったと長享元年の興福寺別当尋尊の日記に残っており、中世史の研究者の下山治久はこの計画に早雲と氏親が関与していたのではないかと述べている。 |
| 早雲は延徳3年(1491年)5月までは「伊勢新九郎」の文書が残っているが、明応3年(1494年)の史料では「早雲庵宗瑞」と法名になっており、この間に出家したようだ。 |
| この時代の武士の出家には政治的な意味があることが多く、家永遵嗣は清晃の母の円満院の横死が理由ではないかと述べている。 |
| 明応2年(1493年)4月、管領細川政元が明応の政変を起こして10代将軍義材(後に義稙と改名)を追放。 |
| 軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸は史書においては堀越御所から逃亡しており、武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗した。 |
| 早雲は伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1497年)に南伊豆の深根城を落として、5年かかってようやく伊豆を平定している。 |
| 伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。 |
小田原城奪取
| 二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる。 |
| 明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は早雲に援軍を依頼。 |
| 定正と早雲は荒川で山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、早雲は兵を返した。 |
| 扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去するという不運に見舞われている。 |
| 早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐には攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦っている甲斐は前守護武田信昌と信昌の次男の油川信恵と嫡男で守護信縄との内訌が、相甲国境のある都留郡の小山田氏など甲斐国内の有力国衆の争いと関係して乱国状態にあり、対外的に信縄は堀越公方について足利茶々丸を庇護し、信昌・信恵は早雲や氏親と結び信縄と対立していた。 |
| 早雲と甲斐情勢の関わりは明応7年の明応の大地震で信縄と信昌・信恵間の抗争は一時収束するが再び再開され、信縄の後継である信虎(信直)期には収束し武田氏と北条氏も和睦に至る(1498年)。 |
| 典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らない。 |
| 黒田基樹は明応5年(1496年)に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、扇谷家の守備側の名に大森藤頼と早雲の弟弥二郎の名が山内顕定の書状にあったことを根拠に年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしている。 |
| 『小田原市史』で小田原城奪取の件を執筆した佐藤博信も黒田と同様の見解を採るとともに、早雲の子・幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたことや享徳の乱の頃(藤頼の父とされる氏頼の時代)に大森氏で内紛があったことを指摘し、早雲の進出もこの大森氏の内情に乗じたものと推定している。 |
| また、明応10年3月28日(文亀元年/1501年)に早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点では早雲が小田原城を既に領有していたとみられている。 |
| だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-早雲のラインと、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信虎のライン、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。 |
| 今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501年-1504年)には三河にまで進んでいる。 |
| 『柳営秘鑑』によると文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城下にて松平長親(徳川家康の先祖)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。 |
相模平定
| この敗戦後に顕定は弟の越後守護上杉房能と越後守護代長尾能景の来援を得て反撃に出る。 |
| 永正4年(1507年)、管領細川政元が家臣の香西元長・竹田孫七・薬師寺長忠に暗殺される(永正の錯乱)。 |
| 三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は執権の北条氏に宝治合戦で滅ぼされている。 |
| 敗戦から体勢を立て直した早雲は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、義同を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込んだ。 |
| その後、早雲は上総の小弓公方足利義明と上総武田氏を支援して、房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦している。 |
早雲の出自と生年の論争
| 江戸時代前期までは後北条氏は名門伊勢氏の出と考えられていた様子だが、江戸時代中期以降、『太閤記』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「下克上の時代」と捉える考えが民衆の願望もあいまって形成され、明治時代になって定着し、戦後まで続いた。 |
出自に関する論争
| 伊勢説は『北条記』『相州兵乱記』に書かれており、早雲が信濃守護小笠原定基に宛てた書状で「伊勢の関氏と同族である」と書いていたことを根拠に1901年に藤井継平が主張し、田中義成がこれを支持した。 |
| これに対して渡辺世祐は『寛政重修諸家譜』などにある幕府政所執事の京都伊勢氏の出身で、伊勢貞親の弟貞藤またはその子供であろうとする京都説を主張した。 |
| 1980年前後に奥野高広、今谷明、小和田哲男が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を後の北条早雲とする論文を発表し、その後、有効な反論も出ず、家永遵嗣などの研究の進展もあって、ほぼ定説化した。 |
現況
| 作家などは身分が低く人生の辛酸を舐め、十分に老成した人間でなければ早雲のような活躍はできまいと長年論じてきたが、近年の研究を反映した早雲像は全く別であり、将軍に直接仕える名門一族の青年が幕府の命を帯びて駿河に下り、中央の政治と連動しながら関東で活躍して、後北条氏の祖となったことになる。 |
| 司馬遼太郎の『箱根の坂』(1984年)では、その時期の研究を反映して単純な伊勢素浪人とせず、備中伊勢氏とし、政所執事伊勢貞親の屋敷に寄宿しながら京で足利義視に仕える設定である。 |
| 2005年放送の「その時歴史が動いた:戦国をひらいた男~北条早雲 56才からの挑戦~」(NHK、ゲスト:小和田哲男静岡大学教授)では、早雲を幕府の高級官僚としているが、年齢については享年88説を採り「大器晩成」として描いている(諸説を検討の結果一般的な説を採用したとのこと)。 |
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1467年
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応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛し... |
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今川義忠は遠江の塩売坂の戦いで西軍の遠江守... |
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