43643
43974
507802
%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%85%83
%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%85%83
%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%85%83
%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%85%83%20-%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%85%83%E7%94%9F
%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%85%83
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 北野元の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 北野元とは
- 2輪ライダー時代
- 4輪レーサー時代
- 引退後
- 特徴
- エピソード
- 関連サイト
北野元(きたのもと、1941年1月1日-)は、元ホンダワークス所属のライダー、元レーシングドライバー。京都府京都市出身。かつて 高橋国光・ 黒澤元治と共に日産自動車追浜ワークスの 三羽ガラスと呼ばれた。2007年11月現在、二輪用のタイヤを扱うタイヤショップウルフ・モトを経営。ツインリンクもてぎ内の博物館ホンダコレクションホールに動態保存されている多くの2輪・4輪のレース用マシンを、イベントなどで走らせる ドライバー役も務める。愛称北(きた)さん。血液型O型。
2輪ライダー時代
| 1959年4月に大阪の信太山で開催された「第1回全日本モトクロス競技大会」でデビューし、オープンレースでいきなりの優勝を飾る。 |
| 同年8月の第2回全日本クラブマンレース(アマチュアが対象)に出場。 |
| 市販モデルのホンダ・ベンリィスーパースポーツCB92で125ccクラスに、市販レーサーであるドリームスーパースポーツCR71で250ccクラスに出場し、両クラスで優勝する。 |
| 同レースと併催だった第3回浅間火山レース(ワークスチームが対象)125ccクラスにも招待され、市販マシンCB92でホンダのワークス勢を抑えての優勝を果たす(1レースで3勝)。 |
| 浅間火山レースの250ccクラスにも招待されていたが、このレースには出走していない。 |
| 125ccに続き250ccクラスでもホンダワークスが負けては困ると、ホンダから北野に対し出場を控えるよう要請があったのではないか、という説もある(CR71は名目上は市販車だが、事実上ホンダ系チームだけに貸与されていた)。 |
| これらの活躍で一躍注目の的となり、高橋国光や伊藤史朗と並び、若き天才ライダーと呼ばれた。 |
| 翌1960年にホンダワークスに加入(高橋国光も同時に加入)。 |
| 弱冠19歳で世界最高峰の難レースと言われたマン島TTレースに出場したのを始め、ロードレース世界選手権に出場し活躍することになる。 |
| 1961年初めのUS(アメリカ)GP(世界GPではないノンタイトル戦)250ccクラスで、マイク・ヘイルウッド(モンディアル)などの強豪を破り独走優勝。 |
| 世界GP戦ではないものの、これはホンダにとって海外レースでの初優勝だった。 |
| ただし同じ1961年のマン島TTの練習時に転倒し重傷を負ってしまい、同年の大半を治療等に費やす結果になった。 |
| その後もホンダワークスライダーとして世界GPに出場するが、目立った成績は残していない。 |
4輪レーサー時代
| 1964年5月、鈴鹿サーキットで行われた自動車レースの第2回日本グランプリにホンダもS600で出場することになり、北野もステアリングを握ることになった。 |
| 北野は予選前日の150R(現在の130R)で大クラッシュを演じたにもかかわらず、同じチームの外国人ドライバーロニー・バックナム(ホンダF1の初代ドライバー)に次ぐ2位でレースを終えている。 |
| 1965年からはホンダ2輪チームの先輩格にあたる田中健二郎に誘われる形で、同チームの高橋国光とともに日産の追浜ワークスに移籍。 |
| 以降は4輪ドライバーとして活躍する。 |
| 最初はフェアレディ1600を駆ってレースに出場していたが、ライバルとのポテンシャルの差からなかなか勝てずにいた。 |
| それでも1966年の第3回日本グランプリではフェアレディS日産がフェアレディ1600をベースに直列6気筒DOHC2000ccを載せたマシンで、実戦参加は2戦だけだったを駆って予選では2番手を約15秒離して堂々のポールポジションを獲得した。 |
| 翌1967年の第4回日本グランプリでは、初めて乗ったミッドシップの本格的なプロトタイプ日産・R380AーIIこの前年にプリンス自動車工業と合併しており、プリンスのマシンはそのまま日産のマシンとして継続されたに苦戦しながらも4位入賞するなど、彼の技術は確実に磨かれていった。 |
| 1968年の「'68日本グランプリ」において日産・R381で念願の総合優勝を獲得、名実ともに一流ドライバーの仲間入りを果たすこととなった。 |
| 1969年の「69日本グランプリ」でも日産・R382で、同じチームの黒澤元治に次いで2位。 |
| 1970年6月の「富士300マイル」で優勝とプロトタイプでの活躍が続いた。 |
| ただし折からのオイルショックや排ガス規制の波によって日産がレース活動を縮小したため、プロトタイプでの活動はこの70年が最後になってしまった。 |
| その後はツーリングカーやGTカーを主体にレース活動を行った。 |
| フェアレディZ432では、同車のデビュー戦となった1970年鈴鹿300kmレースでリタイヤに終わったものの、当時「レースの神様」と呼ばれた田中健次郎を絶賛させた。 |
| フェアレディ240Zでは、1971年の全日本ドライバー選手権で土付かずの年間チャンピオンを獲得。 |
| 1972年9月3日の「富士インター200マイルレース」ではスカイライン2000GT-Rに乗り、マツダサバンナRX-3を駆る従野孝司との死闘を制し52勝目の勝利をGT-Rにもたらした。 |
| サニーエクセレントでは、1972年の日本グランプリでスタート直後の大事故で多くのサニー勢が消えた中、たった一台でトヨタ勢とバトル。 |
| そのほかブルーバード、チェリーなど多くのマシンで数多くの優勝、入賞を果たしている。 |
| 1973年中盤からは富士グランチャンピオンレース(通称・富士GC)や全日本F2000(後の全日本F2)に進出。 |
| チーム体制やマシンのポテンシャルの問題から苦戦を強いられることが多かった(両シリーズ合わせて最高位2位)ものの、常にトップドライバーと見なされていた。 |
| 1974年6月2日の富士GC第2戦で、第2ヒートのスタート直後に黒澤元治と接触。 |
| 風戸裕・鈴木誠一が死亡する大クラッシュの一因になってしまった。 |
| ただし黒澤が北野に接触したのが原因であり(黒澤が故意に接触したという証言もある)、北野に責任はないと見る向きが多い。 |
| 1978年の「78JAF富士グランプリ」での6位を最後に一度現役を退く。 |
| 以後、2輪用タイヤショップを経営。 |
| 1987年の「全日本ツーリングカー選手権」(通称・グループA)に、レイトンハウスのスカイラインRSターボで出場(コンビを組んだのは影山正彦)。 |
| 1988年、日産ワークスの後輩である星野一義主宰のホシノ・レーシングから、本格的にレースに復帰。 |
| 和田孝夫とコンビを組み、スカイラインGTS-Rで全日本ツーリングカー選手権に参戦。 |
| 1989年は星野と組んで1年間戦い、西仙台ハイランド300kmレースでは17年ぶりの総合優勝を飾っている。 |
| この年現役生活から引退する。 |
引退後
| 現在では二輪タイヤショップ「ウルフ・モト」のオーナーとして、そのバイクに合ったベストなタイヤ選択と安全に速く走る方法を顧客に伝えている。 |
| 近年、ニッサンが年に一度開催する「NISMOFESTIVAL」で、往年のマシンをデモ走行させている。 |
| 2003年はスカイライン2000GT-Rレーシング仕様、2004年はレストアを終えたR382(ただしゼッケン21の黒澤元治仕様)、フェアレディ240Z(当時テスト用として使われていたマシンらしい)、2005年は北野が「68日本グランプリ」で総合優勝したニッサンR381(ゼッケン20)を走らせている。 |
特徴
| 4輪時代は黒いジェット型ヘルメットに口ひげがトレードマーク。 |
| 右側にちょっと首を傾げてドライブするのも特徴で、ツーリングカーでは右手を窓枠にかけ、しばしば片手ハンドルを行っていた。 |
| マン島TTレースで重傷を負った際の後遺症のためと言われる。 |
| 日本の4輪レースでフルフェイス型ヘルメットが初めて使用されたのは、1969年の日本グランプリにおける日産チームだったと言われる(元祖フルフェイスである米ベル社のヘルメットを、日産がワークスドライバーに支給)。 |
| ほとんどのドライバーが喜んでフルフェイスを使用する中、北野は「重く違和感がある」とジェット型ヘルメットに固執し、結果として同レースでは2位入賞。 |
| その後フルフェイスが完全に主流になった1970年代中盤でも、ジェットを使用し続けていた。 |
| とはいえ北野は70年6月に行われた全日本富士300マイルで、白地に黄色い横のストライプの入ったフルフェイスをかぶって、黒澤元治とともにニッサンR382をドライブし優勝。 |
| 1975年シーズンからは黒のフルフェイスをかぶっている。 |
| 高橋国光などと並び天才肌と称されたが、比較的早めにトップカテゴリーから引退しているため、やや地味なイメージになっている面もある。 |
| しかし当時を知る関係者や、近年のメモリアルイベントの現場で直に接した人々の間では、「あれだけの実績があるのに偉ぶらず親切で礼儀正しい人」と非常に人気が高い。 |
| 師匠筋である田中健二郎も「北野は向こうっ気が強い面もあったが、仲間やライバルが事故でコースアウトしていたりすると、すぐにマシンを止め真っ先に救助に駆け付ける男でもある」と評している。 |
| レースでは誰よりも激しい走りを見せ全盛期の星野一義をも驚かせた北野だが、オーナーであるタイヤショップを訪れる一般ライダーには「タイヤの馴らしが終わるまで絶対に無理するなよ、スピードは控えめにしろよ、他人にいい格好を見せようとしちゃ駄目だよ」などと、元世界GPライダーとは思えないほど(逆に言えば危険な領域を知っているからこその)安全第一の丁寧なアドバイスを送ることで知られている。 |
エピソード
| 元日に生まれたことから「元」と名付けられたと言われる。 |
| 北野がホンダのワークスライダーとしてGP参戦のため渡欧した際、当初欧州の人々に「元」はニックネームなのだと思われていたらしい。 |
| 「元」の音とローマ字のスペル「Moto」が、フランス語やイタリア語などで「オートバイ」を意味する「Moto」と全く同じだったためである。 |
| ホンダ世界GPチーム監督だった河島喜好(ホンダ2代目社長)は「世界のトップクラスの壁を破る技術面に関しては、高橋国光よりも北野元の方が時期的には早かった」と評している。 |
| 八重洲出版モーターサイクリスト1962年3月号。 |
| ホンダワークス~ニッサン追浜ワークスの間、ずっと同じチームに所属していた高橋国光とは一度も口を利いたことがなく、初めて口を利いたのはグループAに復帰してからだったそうである。 |
| 同格のドライバーだった現役時代は、お互いに意識し合っていて素直になれなかったのだという。 |
| 現在では無二の親友らしい。 |
| 高橋国光は「北野君のようなマシンの切り方ができるドライバーは他に誰もいなかった。 |
| 自分を天才だとは思わないが、北野君は天才でしょう」と評している。 |
| 芸文社ノスタルジックヒーローVOL137。 |
| 三菱ワークスドライバーだった望月修がF2マシンを転覆させ下敷きになった際、北野は一番先に現場に駆け付けて救助に当たった。 |
| 同じ日産の黒澤元治がテスト中にコースアウトしマシンを転覆させた際も、コース脇の草むらをかき分け最初に救助に駆け付けたのは北野だった。 |
| 1972年9月3日の富士インター200マイルレースでは、従野孝司のサバンナを徹底的にブロックして優勝したが、レース後に従野の母が北野のもとを訪れ「息子にレースというものの厳しさを教えてくださってありがとうございました」と挨拶してきたという。 |
| 芸文社ノスタルジックヒーローVOL121。 |
| 富士インター200マイルレースの後、従野の実兄の片山義美が抗議(あるいはブロックの仕返しの通告)に訪れた際、他の日産勢はどこかに消えてしまったが、北野だけは逃げずに片山の話を聞いたという。 |
| 芸文社ノスタルジックヒーローVOL122。 |
| 1974年6月2日のGC第2戦での大クラッシュの直後、難を逃れて周回してきたマシン群を停車させようとコース中央に仁王立ちした。 |
| この時、主催者側から赤旗(レース中止の合図)が提示されていたと言われている。 |
| 高橋国光を先頭としたマシン群は、北野の制止があったものの、その後に2周ほど周回してからピットインしている。 |
| 実は左手の人差し指がないというハンディを持ってレース活動を行っていた。 |
| 2輪ホンダワークス所属時にトレーニング中のアクシデントで指を負傷したが、直後のレースに支障が出ないよう治療を諦め、あえて切断という選択をしたと言われる。 |
| 星野一義は日産の頃からずっと北野にあこがれていた。 |
| 北野の技量の高さだけではなく、人柄にも惚れていたらしい。 |
| 1989年の全日本ツーリングカー選手権に北野と共に参戦することになった際「ボクが一番尊敬している先輩とのコンビです」と語っている。 |
| オートスポーツ№525。 |
|
1941年
|
北野 元(きたの もと)は、元ホンダワークス... |
|
1959年
|
大阪の信太山で開催された「第1回全日本モト... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
高橋国光
日本の元レーシングドライバー、オートバイ評論家。東京都北多摩郡小金井町(現・小金井市)出身。血液型:B型。愛称は国さん。二輪・四輪合わせて489レース... |
|
|
星野一義
元レーシングドライバーで、現在は株式会社ホシノインパル代表取締役社長。静岡県安倍郡玉川村(現・静岡市葵区)出身。血液型:A型。現役時代は「日本一速い... |
|
|
長谷見昌弘
日本の元レーシングドライバーで、現在は有限会社ハセミモータースポーツ代表。東京都青梅市出身。東京都立八王子工業高等学校卒業。 |
|
|
田中健二郎
日本の元オートレース選手、レーシングライダー、レーシングドライバー。福岡県出身。 |
|
|
黒沢元治
黒沢元治プロフィール 黒沢 元治(くろさわ もとはる) 1940年8月6日生 茨城県日立市出身 日本のモータースポーツの黎明期、60年後半~70年代にかけて活躍。... |
|
|
黒澤元治
日本の自動車評論家であり、元・レーシングドライバー。茨城県日立市にて日立に勤める技術者の息子として生まれる。1960年代から1970年代に掛けて自動車競技... |
|
|
片山義美
日本の元レーシングライダー、レーシングドライバー。兵庫県出身。 |
|
|
生沢徹
生沢徹(いくざわてつ、1942年8月21日-)は日本の元レーシング・ライダー、元レーシング・ドライバー、元レーシング・チームオーナーである。日本のカーレー... |
|
|
伊藤史朗
日本の元レーシングライダー。16歳の若さで浅間火山レースに出場しデビューウインを果たし、世界GPでも活躍を見せ、天才ライダーと評された。なお名の「史朗... |
|
|
本田宗一郎
日本の実業家、技術者。本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。 |
|
|
北野千賀子
厚生労働省は二日、・・・一九八○年に表面化した所沢市の富士見産婦人科病院
(廃院)事件で、当時の北野千賀子院長(78)を医師免許取り消し処分とした。・... |
|
|
柳田春人
埼玉県出身のレーシングドライバーである。自動車チューニングショップセントラル20代表取締役社長。実子は同じくレーシングドライバーの柳田真孝。フェアレ... |
|
|
北野大
日本の化学者、タレント、コメンテーター。明治大学教授。淑徳大学客員教授。専門は環境化学。工学博士(東京都立大学、1972年、学位論文「光分解-ガスクロマ... |
|
|
砂子義一
元レーシングライダー、元レーシングドライバー。一時は「砂子晴彦」の名でレースに出場していた。ヤマハワークスライダーとして世界GPレースなどで活躍後、... |
|
|
影山正彦
日本のレーシングドライバー。神奈川県藤沢市出身。血液型はAB型。同じくレーシングドライバーの影山正美は実弟。 |
|
|
高橋健二
高橋健二 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 , 検索 高橋 健二 (たかはし けんじ) 高橋健二 (ドイツ文学者) - ヘッセ等... |
|
|
都平健二
茨城県出身の元日産追浜ワークスドライバー。スカイライン2000GT-Rやサニー1200GXに乗り、幾多の名勝負を展開。特に1970年代後半から1980年代にかけてのマイ... |
|
|
鈴木誠一
元2輪ライダー、元日産自動車 日産大森ワークスに所属していたレーシングドライバー。日産・サニーのA12型エンジンのチューナーとして名高い東名自動車(現・... |
|
|
谷口尚
谷口 尚大郎
(たにぐち しょうたろう)
日本内科学会認定医
【所属学会】
日本内科学会、日本糖尿病学会、日本臨床検査医学会
【経歴】
2001... |
|
|
鮒子田寛
日本の元レーシングドライバーで、現在はレーシングチームのマネージャー。京都府京都市出身。同志社大学法学部出身。 |
|
|
北野元さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|