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プロフィール
- 十時連貞とは
- 宗茂の片腕に
- どこまでも主君と共に
- エピソード
- 参考・出典
十時連貞(とときつれさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての戦国武将。 立花宗茂の家臣・柳川藩家老、立花四天王の一人。
宗茂の片腕に
| 立花道雪の重臣・十時惟次の次男、「沈勇にして剛直也」と伝わる。 |
| 連貞も父と同じく道雪に仕え、永禄12年(1569年)に父と兄は多々良浜の戦いで戦死、筑前に30町歩の所領を与えられた。 |
| 天正9年(1581年)、嗣子の無かった道雪が高橋紹運の長男・立花宗茂を養子に迎えると、道雪の命令で宗茂付の家臣となった。 |
| 天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐が始まると、前年の島津氏による筑前侵攻で捕らえられていた宗茂の生母・宋雲院と弟の高橋統増(立花直次)を救出するという功績を立てた。 |
| 九州征伐後に宗茂が秀吉から筑後柳河(柳川)13万石の領主に封じられると、宗茂から筑後山門郡内で33町歩の所領を与えられた。 |
| 天正19年(1591年)5月には家老に任命される。 |
| 天正20年(1592年)から始まった朝鮮出兵では宗茂と共に渡海して功績を立て、文禄5年(1596年)4月に1300石に加増され、慶長3年(1598年)にはさらに200石を加増された。 |
どこまでも主君と共に
| 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで宗茂は西軍に与して東軍方の大津城を攻撃したため(大津城の戦い)、戦後に改易されて浪人となった。 |
| しかし連貞はあくまで宗茂を主君として従い、宗茂と共に肥後熊本の加藤清正の食客となった。 |
| 慶長8年(1603年)冬には加藤家を辞去し、宗茂と共に江戸に出た。 |
| しかし生活費などに貧窮したため、連貞は主君の生活費を稼ぐために由布惟信ら他の家臣たちと共に虚無僧になって米銭を稼いだといわれる。 |
| まもなく宗茂が徳川家康に請われて家臣となり、陸奥棚倉藩1万石の藩主として復帰すると、宗茂より長年の忠義を評価されて200石を与えられた。 |
| 後に宗茂が柳河に復帰を許されると、連貞は老齢を理由に隠居を申し出る。 |
| このとき、宗茂より隠居料として1000石を与えられた。 |
| 寛永14年(1637年)の島原の乱では高齢の主君と共に出陣している。 |
| 寛永21年(1644年)9月14日、主君・宗茂の死から2年後に死去した。 |
| 十時の家系は柳川藩組頭家兼家老家を初めとして多くが藩士として幕末まで続いた。 |
エピソード
| 陪臣の身であるにも関わらず、その忠勇は諸大名に知られていた。 |
| 慶長19年(1614年)の大坂の役では豊臣家から高禄をもって誘われたが、宗茂への忠義を選んで拒絶している。 |
| 江戸で虚無僧をしているとき、町外れで3人の暴漢に襲われた。 |
| 連貞はここで戦えば宗茂に迷惑がかかると考えて逃げたが、暴漢は執拗に追跡した。 |
| そのためにやむなく応戦したが、連貞は尺八で暴漢の刀を受け止めたうえ、その刀を奪い取って3人を斬り殺した。 |
| 後にこれが問題となって捕らえられたが、老中の土井利勝は無罪放免として解き放ったという(この直後に宗茂が書院番頭・棚倉藩主として復帰していることから、宗茂を評価していた家康の意があったものと推測される)。 |
参考・出典
| 三百藩家臣人名事典7 (新人物往来社)。 |
| 小説 立花宗茂 上/下。 |
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1569年
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父と兄は多々良浜の戦いで戦死、筑前に30町歩... |
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1598年
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さらに200石を加増された |
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つながりの強いひと
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立花宗茂
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十時連貞さんについてのひとこと紹介
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