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プロフィール
- 卑弥呼とは
- 「魏志倭人伝」の卑弥呼
- 「魏書帝紀」の俾弥呼
- 朝鮮半島の書物から
- 年譜
- 呼び名
- 現代中国語でのピンインでの表記
- 卑弥呼の死
- 人物比定
- 神功皇后説
- 熊襲の女酋説
- 甕依姫説
- 倭姫命説
- 倭迹迹日百襲媛命説
- 天照大神説
- 関連項目
- 関連サイト
卑弥呼( ひみこ、170年頃-248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。
「魏志倭人伝」の卑弥呼
| 「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王ノ都トスル所)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼事鬼道能惑衆)。 |
| この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。 |
| ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。 |
| 既に年長大であったが夫を持たず(年已長大無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。 |
| 王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。 |
| 宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(唯有男子一人給飮食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設)。 |
| 卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼死去卑彌呼以死大作冢徑百余歩)。 |
「魏書帝紀」の俾弥呼
| 『三國志』(三国志)の卷四魏書四三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。 |
朝鮮半島の書物から
| 朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀(1145年成立)による。 |
| 173年-倭の女王卑弥呼が、使者を送って、新羅に交際を求める(二十年夏五月倭女王卑彌乎遣使来聘)。 |
| なお中国の歴史書では356年に「新羅」となったと記述されている。 |
年譜
| 中国の歴史書による。 |
| 建武中元二年(57年)-倭奴国が金印を授与される。 |
| 永初元年(107年)-倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。 |
| 倭国、男性を王とした七、八十年。 |
| 桓帝と霊帝の間(146年-189年)-倭国大乱。 |
| 光和年間(178年-184年)-卑弥呼が共立され、倭を治め始める。 |
| 景初三年(239年)-卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。 |
| 魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。 |
| 正始元年(240年)-帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。 |
| 正始四年(243年)-倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。 |
| 正始六年(245年)-難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。 |
| 正始八年(247年)-倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。 |
| 難升米に詔書、黄旗を授与。 |
| 正始八年(247年)、またはその直後。 |
| 卑弥呼が死に、墓が作られた。 |
| (『梁書』では正始年間(240年-249年)に卑弥呼死亡)。 |
| 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。 |
| 卑弥呼の宗女「壹與」を十三歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。 |
| 女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。 |
| 泰始元年(265年-)-倭の遣使が重ねて入貢。 |
| 『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。 |
呼び名
| 『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一列傳第四十六東夷倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書帝紀では「俾彌呼」と表記されている。 |
| 一説には、中華思想により、他国の地名、人名には『蔑字』を使っている為に、この様な表記となっている。 |
| また他の一説には、古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。 |
| これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。 |
| 現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。 |
| 日巫女(ひみこ)。 |
| 日御子(ひみこ)。 |
| 姫子(ひめこ)。 |
| 姫御子(ひめみこ)。 |
| 日女子(ひめこ)-駒澤大学教授の三木太郎の説。 |
| 男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。 |
| ひむか・ぴむか-長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語 ―弥生語復元―』学生社 2010年。 |
| 3世紀の洛陽音の復元による。 |
| 日向(ひみか・ひむか)-松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。 |
| 日甕依姫(ひみかよりひめ)― 古田武彦が唱えた。 |
現代中国語でのピンインでの表記
| いずれにせよ、弥生時代の日本語の発音および当時の中国語の音写の法則についてはまったく説が確立しておらず、したがってその意味も判然としない(少なくとも現代日本語で解釈するのは学術的に無意味であり、古代日本語の音韻論を基本に考察しなければならない)。 |
卑弥呼の死
| 魏志倭人伝には、卑弥呼の死については。 |
| 卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。 |
| また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとし、卑弥呼の死も240年から246年までにおきた出来事とする考えもある。 |
| 通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死するをもって」つまり「死んだので」墓が作られた、あるいは、「すでに死す」と読み、直前に書かれている「拜假難升米爲檄告喻之」(難升米が詔書・黄憧を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。 |
| 卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たり、邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓は古墳の可能性がある。 |
| 箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)とする説もある。 |
| 九州説では、平原遺跡を卑弥呼の墓とする説奥野正男『邪馬台国は古代大和を征服した』、 |
| 天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝日本時間。 |
| 世界時では4日に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。 |
| 井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。 |
| 更に同書では「倭国大乱」は156年の皆既日食を原因とし、その時期を167年~168年頃と推定する。 |
| また卑弥呼はその中で自身を「太陽の化身」と称して人望を集め民衆を統率したが、248年の狗奴国との戦争中に皆既日食が発生して自身の正当性が崩れた為に大敗して邪馬台国が壊滅寸前にまで至り、その結果王頎の部下の張政が作成した檄文によって周囲に殺害されたとしている。 |
| さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。 |
| しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり |
人物比定
| 卑弥呼が、『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証はなく、別の王朝だった可能性もある。 |
| また倭国連合の邪馬台国王であった卑弥呼自身の出自に関しても、先住縄文系出身であったか今来渡来系出身であったかなどは全く分かっておらず、今後の研究が待たれる。 |
神功皇后説
| 『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用している。 |
| このため江戸時代までは、卑弥呼はヤマト王権の神功皇后だと考えられていた。 |
熊襲の女酋説
| 本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。 |
| 本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。 |
| 宣長は日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は宣長にとって到底受け入れられるものではなかった。 |
| 宣長は「魏志倭人伝」の記述から邪馬台国は九州にあったと結論し、九州の熊襲の女酋長であった卑弥呼が勝手に神功皇后の使いと偽って魏と通交したとした。 |
甕依姫説
| 九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。 |
| また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。 |
倭迹迹日百襲媛命説
| 孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。 |
| 『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。 |
| 同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。 |
| 『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。 |
| また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。 |
| 従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。 |
| しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。 |
| 箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている |
天照大神説
| 卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある毎日新聞(関西)朝刊1995年7月25日、8月5日。 |
| ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている |
| 安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという『卑弥呼の謎』講談社新書1972年など。 |
| 安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動して大和朝廷になったとする(邪馬台国東遷説)。 |
| 、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王隋書では俀國、俀王。 |
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