| 父は福岡県立三池工業高等学校、東海大学付属相模高等学校および東海大学硬式野球部の監督であった原貢。 |
| 幼少期を福岡県大牟田市で過ごし、大牟田市にある東洋高圧の社宅に住んでいた。 |
| なお、同じ社宅には真弓明信も住んでいた。 |
| 炭鉱町に咲いた原貢野球―三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡(澤宮優著、現代書館2004年)私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校、大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校と転校。 |
| 小学校2年のとき、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県厚木市へ転居佐藤正弥編著 『データ・バンクにっぽん人』 現代書林、1982年、26-27頁。 |
| 厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校、相模原市立上鶴間中学校と転校した。 |
| 中学卒業間近に、原は体育の授業(サッカー?)で左足首を複雑骨折した。 |
| 診察した医師からも「このままでは、君は野球はできないかも知れないね」と告げられたことがある。 |
| 怪我の状態は深刻で、最悪の場合歩行困難あるいは重い後遺症が残ると思われ、通常なら野球生命を絶たれる状態だった。 |
| しかし、原自身が野球を続けたい熱意が強かったため、根気よく粘ってリハビリ回復に成功し、幸いにも野球は続けられたが、後年のアキレス腱の悪化に間接的に繋がった。 |
| 中学校時代、厚木市の公営団地に住んでいたが、その団地の同じ棟には推理小説家の森村誠一一家も住んでいた。 |
| 当時の原は練習帰りに団地の公園で森村の長男の遊び相手をしていた。 |
| 森村は当時の2人の姿を覚えており、「面倒見のいい辰徳君に感謝しています」と語っている( |
| 1974年、東海大相模高校に入学し、1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。 |
| 夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。 |
| この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末高知高校に敗れたものの、準優勝という成績を収めている。 |
| 甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する定岡正二1974年の夏の全国高等学校野球選手権大会の準々決勝で原辰徳の東海大学付属相模高等学校と定岡正二の鹿児島実業高等学校が対戦し、延長15回の熱闘となってNHKが試合中継を途中で打ち切ったために、視聴者から苦情が殺到する一幕があった(全国高等学校野球選手権大会#テレビ・ラジオ中継#NHKでの中継の項参照)。 |
| この一戦が原辰徳の名が全国に知られるきっかけとなった。 |
| また原が巨人に入団した際、『月刊ジャイアンツ』誌上にて既にチームの先輩であった定岡との対談が組まれている。 |
| 、宇野勝、土屋正勝、杉村繁らと名勝負を繰り広げている。 |
| 地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にする程の「原フィーバー」を巻き起こした。 |
| 当時のチームは、原の他にも、津末、綱島、佐藤、村中らの好選手を擁していた。 |
| 高校通算本塁打は43本。 |
| 1976年のプロ野球ドラフト会議の目玉だったが、原はドラフト直前にプロ入りを拒否し、首都大学野球連盟の古豪で強豪校の東海大学への進学を表明。 |
| 全球団から指名なしという事態が起き、ドラフト直後に巨人オーナーの正力亨と監督の長嶋茂雄が「原の獲得に乗り出す」と言明、特に正力が「すでに手は打ってある」と発言したことから東海大学総長松前重義が激怒、記者会見を開き「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば彼も死ぬことになる」などと発言し、ちょっとした騒動になった。 |
| その後無事に東海大学政治経済学部経済学科に進学。 |
| 遠藤一彦は先輩、市川和正は同級生、高野光は後輩にあたる。 |
| 当時東海大学はあまり大学野球で人気のない首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した。 |
| 首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。 |
| 2年生秋と4年生春の2度の打撃三冠王になる。 |
| リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。 |
| 大学1年時の秋に行われた明治神宮野球大会では、東京六大学リーグのエースとして君臨していた法政大学の江川卓と対戦。 |
| 4打数2安打1本塁打を記録するものの同年の全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会では共に決勝で敗れ日本一は果たせなかった。 |
| 3年生時に日本で開催された日米野球では、早稲田大学4年生の岡田彰布チーム上では立場は違い、原と岡田は特別に仲がいいわけではないが、大学時代の全日本代表時から付き合いがあり、プライベートではお互いに携帯でメールでやり取りするほどの仲である。 |
| 2008年に岡田が監督を辞任した時に「“岡田さん、辞めないでください”と原からメールが来た」と岡田がコメントしたことがある。 |
| 2008年11月16日放送『SUPERうるぐす』の「独占告白阪神岡田前監督辞任の真相」より。 |
| と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、デレク・タツノらと対戦した。 |
| この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。 |
| 大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きなものとした。 |
| 1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。 |
| 1980年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツ新監督の藤田元司が4球団競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団。 |
| 入団決定直後に日本テレビで特集番組が放映された。 |
| 背番号については前年限りで監督を退任した長嶋茂雄が「できることなら(永久欠番になっている)僕の3を譲りたい」と言うほどの惚れこみようだったが、高田繁の引退に伴い空いた「8」となった。 |
| 1985年までの初代応援歌は背番号にちなんで『エイトマン』の主題歌だった。 |
| 監督時代の応援歌も同じで、第一次政権として最後の試合となった2003年10月7日の対阪神戦(甲子園)では、巨人の応援団は誰が打席に立っていても原の応援歌を流し続けた。 |
| 1981年3月、東海大学政治経済学部経済学科卒業。 |