SPYSEEとは
|
よくあるご質問
|
ユーザ登録
|
ログイン
検索
詳細検索
39814
40124
456142
%E5%8E%BB%E5%8D%91
%E5%8E%BB%E5%8D%91
%E5%8E%BB%E5%8D%91
%E5%8E%BB%E5%8D%91
%E5%8E%BB%E5%8D%91
0
去卑
Tweet
トップ画像の変更
他の画像検索結果
※ 画像について
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。 人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう
去卑の画像検索結果ページ
で修正できます
閉じる
ネットワーク
タグ
タグはありません
タグを編集
キーワード
建安
196年
195年
匈奴
夏
すべて見る
プロフィール
去卑とは
生涯
世系について
参考資料
去卑(呉音:くひ、漢音:きょひ、拼音:Qùbēi、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての南匈奴の人物で、
呼廚泉
単于の時の右賢王である。誥升爰の父で、潘六奚の兄。夏を建国した
赫連勃勃
はその後裔である。
生涯
興平2年(195年)、持至尸逐侯単于於扶羅が死に、
呼廚泉
が単于となると、去卑は右賢王となる。
11月、
献帝
が長安を出立して洛陽に向う際、
楊奉
、
董承
らは白波賊帥の胡才、李楽、
韓暹
および南匈奴の右賢王去卑を招きよせ、李傕、郭汜、張済らを撃退して、首級数千を挙げた小説『三国志演義』では異民族(匈奴)が天子を救ったという件を一切触れさせず、登場しない。
12月、ふたたび李傕らに追撃され、
楊奉
らは敗北する。
その後、なんとか安邑まで逃れる。
建安元年(196年)1月、
献帝
は安邑にて天下に大赦し、建安と改元した。
7月、ようやく車駕は洛陽へたどりついた。
その後、去卑らは天子を擁立した曹操の許昌への遷都にも随行した後、司隷の河東郡平陽に駐屯した。
建安21年(216年)7月、単于
呼廚泉
が漢に入朝すると、魏公に就任した曹操は彼を鄴に抑留し、代わって去卑に南匈奴諸部を監督させた。
世系について
去卑の子孫は、『魏書』(劉虎伝)などにより把握できるが、去卑の祖先は諸説あるものの、確かな資料がないため定かではない。
『北史』(破六韓常伝)において、「呼廚貌(
呼廚泉
)は漢に入朝し、魏武(曹操)に抑留せられ、その叔父の右賢王去卑に本国を監督させた」とある。
つまり、去卑は
羌渠
の弟となる。
『新唐書』(宰相世系表)において、「
光武帝
の子孫の度遼将軍であった劉進伯は匈奴を撃った際、敗北して捕虜となり、そのまま劉尸利を生んだ。
尸利は単于より谷蠡王に封ぜられ、独孤部と号した。
尸利の子の劉烏利には二人の子がいて、それぞれ去卑,猛といった」とある。
参考資料
『三国志』(
武帝
紀、
鄧艾
伝)。
『後漢書』(
献帝
紀、
董卓
列伝、南匈奴列伝)。
『魏書』(列伝第八十三鉄弗劉虎)。
『晋書』(江統伝、
赫連勃勃
載記)。
『北史』(列伝第四十一破六韓常)。
『新唐書』(宰相世系表)。
『資治通鑑』(第六十一巻)。
内田吟風『北アジア史研究匈奴篇』(同朋舎出版、1988年、ISBN481040627X)。
去卑 - Wikipedia
より要約
投票数
0
ふりがな
入力する
性別
入力する
出身地
入力する
生年月日
入力する
血液型
入力する
職業
入力する
所属
入力する
Twitter
入力する
フォロワー
追加・投票
不適切なページとして報告する
閉じる
不適切なページを報告する場合は、
ログイン
または
ユーザ登録
してください
※名誉毀損・誹謗中傷にあたる情報の削除等はこちらからお願いいたします
つながりの強いひと
呼廚泉
中国後漢代から三国時代にかけての南匈奴の単于。羌渠の子、於夫羅の弟。
献帝
後漢の最後の皇帝。諱は劉協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は王美人。
於夫羅
中国後漢時代の南匈奴の単于。羌渠の子、劉豹の父、呼廚泉の兄。前趙の劉淵の祖父。諡は持至尸逐侯単于。『後漢書』では於扶羅と表記される。
董承
中国の後漢末期の武将。素性は諸説があるが、一般的には献帝の祖母の董太后の親族(甥)とされる。しかし、後世の史家からはその親族関係は疑問であると指摘...
羌渠
中国後漢時代の南匈奴の単于で、於扶羅、呼廚泉の父。
劉豹
中国後漢末期から西晋時代の南匈奴の左賢王。南匈奴の単于於夫羅の子、前趙の劉淵の父。南匈奴で叛乱が起こったことで於夫羅が漢に留まり、196年に漢地で死ぬ...
赫連勃勃
赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)は五胡十六国時代の夏(大夏)の創建者。
楊奉
後漢末期の群雄。元は李配下の部将。性格は勇猛であるが、思慮が浅い人物と評された。また曹操などは彼の軍勢が精強だったと言っている。
韓暹
中国の後漢時代末期の武将。并州の人と見られる。
張済
後漢末期の武将。董卓の家臣。張繍の族父に当たる。武威郡祖厲県(現甘粛省武威市靖遠県)の人。192年1月、董卓の娘婿の牛輔は・郭汜・張済を派遣して、中牟...
もっと見る
劉衛辰
中国五胡十六国時代の匈奴鉄弗部大人(たいじん:部族長)。劉務桓の第三子で、夏を建国した赫連勃勃の父。
劉淵
五胡十六国時代の前趙の創建者。ただし、劉淵自身は国号を「漢」としている。
劉曜
五胡十六国時代の前趙の第5代皇帝。国号を漢から趙(前趙)に改めた。『晋書』劉曜伝によると、身長は9尺3寸、5尺の髭、白い眉、赤い瞳を持っていたという。...
赫連定
五胡十六国時代の夏の第3代皇帝。初代皇帝・赫連勃勃(世祖)の子として生まれる。428年に兄で第2代皇帝の赫連昌が北魏の太武帝に捕らえられたため、平涼に逃...
金旋
後漢末期の武陵郡の太守。字は元機(げんき)。霍光と共に武帝に後事を託された金日(きんじつてい)の末裔。金禕の父。雍州京兆の人。後漢王朝に仕えて黄門...
苻堅
五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝。華北を一時統一し、中国統一を目指したが、軍を南下させたところを&28125;水の戦いで大敗し、目的を果たせなかった。
赫連昌
五胡十六国時代の夏の第2代皇帝。北魏に敗れてその庇護下で会稽王となり(428年-430年)、次いで秦王となる(430年-434年)。初代皇帝・赫連勃勃(世祖)の子...
姚興
姚興(ようこう)五胡十六国時代の後秦の第2代皇帝。
世祖
世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日)-成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日-1468年9月7日)は李氏朝鮮の第7代国王。...
王粲
中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王龔の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王...
去卑さんについてのひとこと紹介