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去卑
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建安
196年
195年
匈奴
夏
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つながりの強いひと
呼廚泉
中国後漢代から三国時代にかけての南匈奴の単于。羌渠の子、於夫羅の弟。
献帝
後漢の最後の皇帝。諱は劉協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は王美人。
於夫羅
中国後漢時代の南匈奴の単于。羌渠の子、劉豹の父、呼廚泉の兄。前趙の劉淵の祖父。諡は持至尸逐侯単于。『後漢書』では於扶羅と表記される。
董承
中国の後漢末期の武将。素性は諸説があるが、一般的には献帝の祖母の董太后の親族(甥)とされる。しかし、後世の史家からはその親族関係は疑問であると指摘...
羌渠
中国後漢時代の南匈奴の単于で、於扶羅、呼廚泉の父。
劉豹
中国後漢末期から西晋時代の南匈奴の左賢王。南匈奴の単于於夫羅の子、前趙の劉淵の父。南匈奴で叛乱が起こったことで於夫羅が漢に留まり、196年に漢地で死ぬ...
赫連勃勃
赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)は五胡十六国時代の夏(大夏)の創建者。
楊奉
後漢末期の群雄。元は李配下の部将。性格は勇猛であるが、思慮が浅い人物と評された。また曹操などは彼の軍勢が精強だったと言っている。
韓暹
中国の後漢時代末期の武将。并州の人と見られる。
張済
後漢末期の武将。董卓の家臣。張繍の族父に当たる。武威郡祖厲県(現甘粛省武威市靖遠県)の人。192年1月、董卓の娘婿の牛輔は・郭汜・張済を派遣して、中牟...
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劉衛辰
中国五胡十六国時代の匈奴鉄弗部大人(たいじん:部族長)。劉務桓の第三子で、夏を建国した赫連勃勃の父。
劉淵
五胡十六国時代の前趙の創建者。ただし、劉淵自身は国号を「漢」としている。
劉曜
五胡十六国時代の前趙の第5代皇帝。国号を漢から趙(前趙)に改めた。『晋書』劉曜伝によると、身長は9尺3寸、5尺の髭、白い眉、赤い瞳を持っていたという。...
赫連定
五胡十六国時代の夏の第3代皇帝。初代皇帝・赫連勃勃(世祖)の子として生まれる。428年に兄で第2代皇帝の赫連昌が北魏の太武帝に捕らえられたため、平涼に逃...
金旋
後漢末期の武陵郡の太守。字は元機(げんき)。霍光と共に武帝に後事を託された金日(きんじつてい)の末裔。金禕の父。雍州京兆の人。後漢王朝に仕えて黄門...
苻堅
五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝。華北を一時統一し、中国統一を目指したが、軍を南下させたところを&28125;水の戦いで大敗し、目的を果たせなかった。
赫連昌
五胡十六国時代の夏の第2代皇帝。北魏に敗れてその庇護下で会稽王となり(428年-430年)、次いで秦王となる(430年-434年)。初代皇帝・赫連勃勃(世祖)の子...
姚興
姚興(ようこう)五胡十六国時代の後秦の第2代皇帝。
世祖
世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日)-成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日-1468年9月7日)は李氏朝鮮の第7代国王。...
王粲
中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王龔の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王...
プロフィール
去卑とは
生涯
世系について
参考資料
去卑(呉音:くひ、漢音:きょひ、拼音:Qùbēi、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての南匈奴の人物で、
呼廚泉
単于の時の右賢王である。誥升爰の父で、潘六奚の兄。夏を建国した
赫連勃勃
はその後裔である。
生涯
興平2年(195年)、持至尸逐侯単于於扶羅が死に、
呼廚泉
が単于となると、去卑は右賢王となる。
11月、
献帝
が長安を出立して洛陽に向う際、
楊奉
、
董承
らは白波賊帥の胡才、李楽、
韓暹
および南匈奴の右賢王去卑を招きよせ、李傕、郭汜、張済らを撃退して、首級数千を挙げた小説『三国志演義』では異民族(匈奴)が天子を救ったという件を一切触れさせず、登場しない。
12月、ふたたび李傕らに追撃され、
楊奉
らは敗北する。
その後、なんとか安邑まで逃れる。
建安元年(196年)1月、
献帝
は安邑にて天下に大赦し、建安と改元した。
7月、ようやく車駕は洛陽へたどりついた。
その後、去卑らは天子を擁立した曹操の許昌への遷都にも随行した後、司隷の河東郡平陽に駐屯した。
建安21年(216年)7月、単于
呼廚泉
が漢に入朝すると、魏公に就任した曹操は彼を鄴に抑留し、代わって去卑に南匈奴諸部を監督させた。
世系について
去卑の子孫は、『魏書』(劉虎伝)などにより把握できるが、去卑の祖先は諸説あるものの、確かな資料がないため定かではない。
『北史』(破六韓常伝)において、「呼廚貌(
呼廚泉
)は漢に入朝し、魏武(曹操)に抑留せられ、その叔父の右賢王去卑に本国を監督させた」とある。
つまり、去卑は
羌渠
の弟となる。
『新唐書』(宰相世系表)において、「
光武帝
の子孫の度遼将軍であった劉進伯は匈奴を撃った際、敗北して捕虜となり、そのまま劉尸利を生んだ。
尸利は単于より谷蠡王に封ぜられ、独孤部と号した。
尸利の子の劉烏利には二人の子がいて、それぞれ去卑,猛といった」とある。
参考資料
『三国志』(
武帝
紀、
鄧艾
伝)。
『後漢書』(
献帝
紀、
董卓
列伝、南匈奴列伝)。
『魏書』(列伝第八十三鉄弗劉虎)。
『晋書』(江統伝、
赫連勃勃
載記)。
『北史』(列伝第四十一破六韓常)。
『新唐書』(宰相世系表)。
『資治通鑑』(第六十一巻)。
内田吟風『北アジア史研究匈奴篇』(同朋舎出版、1988年、ISBN481040627X)。
去卑 - Wikipedia
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