| 父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に8代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに上方噺家の6代目笑福亭松鶴に心酔し、「江戸落語の名人」として名実共に人気を博した。 |
| 若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、寄席を何よりも重んじた。 |
| 独演会のチケットはすぐに完売するほどであり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。 |
| 同業者からの評価が非常に高く、毒舌で自尊心の高い7代目立川談志も、「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけだ」と言っている。 |
| また、父志ん生のライバル8代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と志ん生に述べた。 |
| 圓朝とは江戸後期以後、現在の古典落語を確立した噺家であり、落語界ではこの名は誰も継げない止め名とされており、文楽はそれほど志ん朝の芸を愛したと言われている。 |
| ファンや後輩芸人からは「朝(チョウ)様」と慕われ、父志ん生の破天荒さとは違う正統派の江戸前落語を得意とした。 |
| 晩年、時間がないときなどは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。 |
| 自虐ネタで、自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目は、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。 |
| 名古屋大須観音前の大須演芸場を守る足立席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。 |
| 「日本一客の入らない演芸場」で「日本一客を呼べる落語家」が公演をするという男気は、斯界の美談の一つとされる。 |
| 落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。 |
| しかし前者に関しては父志ん生から「車なんざ買うこたぁねぇ」と猛反対され、後者では男性週刊誌記者から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」・「長屋住まいを続け金に執着しない8代目林家正蔵(後の林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。 |
| しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現・林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。 |
| 生前は落語協会分裂騒動を経て落語協会に所属。 |
| 道頓堀の角座に初めて出演した時、落語が受けないので次の日漫談でごまかしたら大いに受けた。 |
| 気をよくしていたら、支配人から「あんさんは、落語してもらうために呼んだんでっせ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。 |
| だが大阪の客に江戸前落語が受け入れられるまで5年かかった。 |
| しかし志ん朝は大阪の街を心から愛するようになったという。 |
| 落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを高座で「器はいいけど、中身は・・・」などと揶揄してよくネタにしていた。 |
| この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。 |
| 父、兄同様に酒をこよなく愛し、死の直前まで日本酒を手放さなかった。 |
| 二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は鰻断ちするよう勧められた。 |
| しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。 |
| 1994年、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に「始めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、晩年「ニュースステーション」に出演の際には(「最後の晩餐」コーナー)、「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。 |
| 癌による死を前に、食べたいものを聞かれたときも「鰻が食べたい」と語ったという。 |
| 獨協高等学校でドイツ語を学んだ。 |
| 当初は外交官になるという夢があり、毎年、弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った。 |
| 亡くなるまでドイツ語の辞書を大事に所持しており、棺にも納められたという逸話もある。 |
| 長く新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。 |
| 晩年は肝臓癌のため、家族、弟子に見守られる中、自宅にて眠るように静かに息を引き取った。 |