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つながりの強いひと
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足利成氏
室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年-1455年)、初代古河公方(1455年-1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就... |
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足利義氏
親
« 足利 義氏 (あしかが よしうじ) | メイン | 足利 頼氏 (あしかが よりうじ) » 足利 やす氏 (あしかが やすうじ) (1216~70)鎌倉時代の武将。建保4... |
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足利持氏
足利持氏(あしかがもちうじ)は室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在位:1409年-1439年)。足利満兼の子。 |
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佐藤博信
氏名 佐藤 博信(さとう ひろのぶ) 生年月日 昭和6年(1931年)4月28日生まれ 剣道段位 範士八段 職業 鹿島神武殿専務理事 剣道歴 全日本... |
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上杉憲忠
室町時代中期の武将。上杉憲実の長男で房顕の兄。官位は右京亮。山内上杉家出身。幼名は竜忠。正室は上杉持朝の娘。関東管領に就任するが、鎌倉公方足利成氏... |
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足利政氏
戦国時代の武将。2代目古河公方(在位:1489年-1512年)。父は足利成氏。母は簗田直助の娘(伝心院)。 |
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鷹見泉石
鷹見泉石(たかみせんせき、天明5年6月29日(1785年8月3日)-安政5年7月16日(1858年8月24日))は江戸時代の蘭学者であり、下総国古河藩の家老である。名を... |
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上杉憲実
室町時代中期の武将、守護大名。関東管領、上野・武蔵・伊豆守護。越後守護上杉房方の3男。子に憲忠、房顕、周清(周清の子に上杉憲房)、法興、周泰ほか。猶... |
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小弓公方
先祖
関東における足利氏(基氏流)の公方家のひとつ。下総国千葉郡小弓(現在の千葉市中央区生実・同緑区おゆみ野の一帯)に本拠地があったことから、その名があ... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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足利義明
足利義明(あしかがよしあき)は室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称。 |
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北条氏綱
親 母
戦国時代の武将、相模の戦国大名。なお、当初は伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)頃である。父の北条早雲は生涯... |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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太田道灌
室町時代の武将。武蔵守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、... |
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足利基氏
南北朝時代の武将。初代鎌倉公方。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男。母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。 |
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阿部能久
思文閣史学叢書 阿部能久 思文閣出版発行年月:2006年02月25日 予約締切日:2006年02月18日 ページ数:293, サイズ:単行本 ISBN:9784784212859 阿部能久(... |
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芳春院
芳春院(ほうしゅんいん、天文16年7月9日(1547年7月25日)-元和3年7月16日(1617年8月17日))は加賀国(石川県)の戦国大名、前田利家の正室。名はまつ。篠... |
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足利義教
室町時代中期の室町幕府第6代将軍(在職:1428年-1441年)。3代将軍足利義満の3男。母は側室の藤原慶子で、4代将軍足利義持の同母弟。僧侶時代は義円、還俗直... |
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安王丸
« 足利 安王丸 (あしかが やすおうまる) | メイン | 足利 成氏 (あしかが しげうじ) » 足利 春王丸 (あしかが はるおうまる) (1431~41)室町時代、足... |
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足利高基
戦国時代の武将。3代目古河公方(在位:1512年-1535年)。足利政氏の長男。 |
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プロフィール
- 古河公方とは
- 日本史上の位置付け
- 永享の乱・結城合戦まで
- 鎌倉府再興
- 古河公方成立(享徳の乱)
- 古河移座の背景
- 中世都市・古河の様子
- 両上杉氏間の抗争(長享の乱)
- 公方家内紛(永正の乱)
- 小弓公方の成立
- 小弓公方の滅亡(国府台合戦)
- 公方体制内の後北条氏台頭
- 後北条氏への抵抗(河越合戦)
- 古河公方の終焉(上杉謙信の関東侵攻)
- 末裔(喜連川氏)
古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方 足利成氏が、享徳の乱の際に鎌倉から古河に本拠を移し、初代 古河公方となった。その後も政氏・高基・晴氏・義氏と約130年間引き継がれた。御所は主に古河城。 古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。
日本史上の位置付け
| 古河公方が成立した享徳の乱は、応仁・文明の乱に匹敵し、関東における戦国時代の幕を開ける事件であった峰岸純夫(1989)、233-254頁(東国における十五世紀内乱の意義)。 |
| 旧来の政治体制が大きく動揺し、新興勢力の後北条氏が台頭する遠因ともなる。 |
| 一方、関東における戦国時代は、史料が豊富で研究が先行している後北条氏の発展過程を軸として解説されることが多く、後北条氏以前の実態には関心が比較的低かった。 |
| しかし、近年の研究により、関東諸豪族から鎌倉公方の嫡流とみなされた古河公方を頂点とする、ある一定の権力構造が存在したことが明らかになっている例えば、阿部能久(2006)、3-12頁(序章)。 |
| 市村高男(1994)、3-26頁(序章)。 |
| 佐藤博信(1989a)、15-36頁」(序論)など。 |
| 後北条氏の関東支配の過程は、古河公方体制に接触し、その内部に入り込み、やがて体制全体を換骨奪胎した後に、自らの関東支配体制の一部として包摂する過程でもあった。 |
| 従って、関東における戦国時代は、古河公方成立で始まり、豊臣秀吉による後北条氏滅亡で終結したとも言える。 |
永享の乱・結城合戦まで
| 貞和5年(1349年)、室町幕府は関東分国統治のために鎌倉府を設置した。 |
| 関東分国には、上野国・下野国・常陸国・武蔵国・上総国・下総国・安房国・相模国・伊豆国・甲斐国が含まれ、後には陸奥国・出羽国も追加された。 |
| 鎌倉府は鎌倉公方とその補佐役である関東管領、諸国の守護、奉行衆、奉公衆らで構成された。 |
| 鎌倉公方は室町幕府初代将軍足利尊氏の次男の足利基氏を初代として氏満・満兼と継承されたが、次第に幕府から独立した行動を取り始め、永享11年(1439年)、第4代鎌倉公方足利持氏と6代将軍足利義教・関東管領上杉憲実とが対立した際に、持氏が討たれて鎌倉府は滅亡した(永享の乱)。 |
| 永享の乱から翌年の永享12年(1440年)に幕府と関東管領上杉氏に反発する結城氏朝を始めとする諸豪族が持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟を奉じて下総の結城城に立て籠もると、これを上杉清方が鎮圧する(結城合戦)など、不安定な状態が続く。 |
| 永享の乱・結城合戦の結果、上杉氏は所領を拡大したが、逆に圧迫された伝統的豪族の反発は後の大乱の遠因ともなった。 |
鎌倉府再興
| 足利義教の死後、幕府は持氏旧臣らによる鎌倉府再興の要望を受け入れ、文安4年(1447年)に持氏の遺児で春王丸と安王丸の兄弟の足利成氏が第5代鎌倉公方に就任した。 |
| 幕閣内では前管領の畠山持国の支援があり、上杉氏も新たな鎌倉公方が対立する諸豪族との仲介になることを期待した。 |
| なお、関東管領は上杉憲実の子である憲忠に交替した。 |
| 古河市史通史編、163-178頁(古河公方足利氏の成立)。 |
| 佐藤博信(1989a)、37-53頁(永享の乱後における関東足利氏の動向)。 |
| 阿部能久(2006)、15-35頁(江の島合戦と足利成氏の関東府再建構想)。 |
| しかし、小山氏・結城氏・宇都宮氏・千葉氏・那須氏・小田氏等の伝統的豪族と、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家との緊張関係は改善されず、宝徳2年(1450年)には、山内上杉家の家宰長尾景仲及び扇谷上杉家の家宰太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生した。 |
| 難を逃れた成氏は両者の処分を幕府に訴えたが実現せず、享徳元年(1452年)に新たな管領になった細川勝元は、関東管領の取次がない書状は受け取らないなど、鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとった。 |
古河公方成立(享徳の乱)
| 享徳3年(1454年)、成氏による関東管領上杉憲忠の謀殺をきっかけとして享徳の乱が勃発する。 |
| 享徳4年(1455年)、分倍河原の戦い・小栗城(筑西市)の戦い等、緒戦は成氏勢が有利だったが、室町幕府は成氏討伐を決め、同年6月、成氏が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉が、上杉氏援軍の今川範忠勢により制圧されると、成氏は下総の古河を新たな本拠とした。 |
| そこで、以降の成氏を古河公方と呼ぶ。 |
| 佐藤博信(1989a)、54-86頁(足利成氏とその時代)。 |
| 千野原靖方(2006)。 |
| 阿部能久(2006)、36-59頁(享徳の乱と関東公方権力の変質)。 |
| 政知は鎌倉へ行けず伊豆の堀越を御所としたため、これを堀越公方と呼ぶ。 |
| 以後およそ30年間にわたり、おもに下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野国・武蔵国・相模国・伊豆国を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力とが、関東を東西に二分して戦った。 |
| 緒戦で不利だった上杉勢は、五十子陣を始めとして、河越城・岩付城・江戸城などの拠点を整備して反撃に転じ、長年に渡って一進一退の戦況が続いた。 |
| しかし文明8年(1476年)、山内上杉氏家宰の後継争いに起因した長尾景春の反乱が発生するなど、上杉氏内部の矛盾が大きくなると、ようやく機運が熟して、成氏と幕府との和睦が成立した(文明14年11月27日(1483年1月6日)・「都鄙合体(とひがったい)」)。 |
| この和睦の結果、堀越公方は伊豆一国を支配することとなり、実質的に成氏は関東公方の地位をあらためて幕府に承認されたと考えられる。 |
| しかし、古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など、不安定な状態は継続しており、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。 |
| 鎌倉は相模守護である扇谷上杉氏の支配下にあったが、その後、永正9年(1512年)8月頃に伊勢宗瑞(北条早雲)の支配下に置かれることになる。 |
| 佐脇栄智(1997)、46-55頁(北条氏綱と北条改姓)。 |
古河移座の背景
| 享徳の乱の際に、足利成氏が新たな本拠地として古河を選んだ理由としては、以下が指摘されている。 |
| 経済的基盤:鎌倉公方の御料所は家臣団により経営されて、経済的基盤となっていた。 |
| 主なものは、鎌倉周辺の相模国内及び下河辺荘を中心とした関東平野中心部の二か所にあり、下河辺庄の拠点であった古河は経済的にも適地であった。 |
| なお、足利家の家臣簗田氏と野田氏はそれぞれ下河辺庄の水海・関宿と古河・栗橋を地盤とし、成氏の古河移座後も関宿城及び栗橋城に拠って古河公方を支える。 |
| 市村高男『古河市史研究』第11号、19-48頁、1986年。 |
| 地理的条件(旗下武家・豪族の結束点):成氏の古河移座当時、おおまかには、下野国・下総国全体、常陸国の大半が古河公方勢力下にあり、上野国・武蔵国の大半、相模国・伊豆国全体は上杉氏の支配下にあった。 |
| 上野国東部・武蔵国北東部・常陸国南部が係争地であった。 |
| 従って、古河は各地に散在した支持勢力の中心にあり、かつ、これらを束ねる扇の要の位置にあった佐藤博信(1989a)、54-86頁(足利成氏とその時代)。 |
| 古河公方を支持した武家・豪族は、下野の宇都宮氏・那須氏・小山氏・佐野氏、下総の結城氏・千葉氏、常陸の佐竹氏・小田氏、上野東部の岩松氏等である。 |
| 特に小山持政は、成氏が「兄弟の契盟」関係と呼ぶほど強く信頼していた例えば、小山市史通史編1、617頁 など。 |
| 宇都宮氏や千葉氏は、支持派と反支持派との内紛の結果、古河公方側になっている。 |
| また、上杉氏の影響力が弱い上総国・安房国には、それぞれ武田氏・里見氏が入部した。 |
| 渡良瀬川・利根川水系では、上流の渡良瀬川・思川が、足利氏ゆかりの下野国足利荘、および、岩松氏・佐野氏や小山氏等の有力豪族拠点と直結した。 |
| 下流の太日川(現在の江戸川)は、古河公方御料所である下河辺荘を縦断した。 |
| (当時の渡良瀬川・利根川河口は東京湾)また、常陸川(現在の利根川下流、茨城・千葉県境部)水系では、印旛沼に面した佐倉を拠点とする有力豪族の千葉氏と結ばれた。 |
中世都市・古河の様子
| 成氏の移座により、古河は第二の鎌倉・新たな東国の都となった。 |
| 李氏朝鮮の申叔舟が1471年に記した海東諸国紀には、「上総州にある鎌倉殿(成氏)の居所が東都と呼ばれている」と紹介されているが、この「東都」は古河を指すと考えられる市村高男、古河歴史シンポジウム「古代・中世の古河地方を見直す-川辺台遺跡から古河公方まで-」(2010年11月27日、古河市にて開催)のレジュメ。 |
| また、公方旗下の武将も、古河に出仕することを「鎌倉」に出仕すると言い表しており、古河が鎌倉として意識されていたことが分かる(『松陰私語』)古河市史通史編、176-178頁(古河城周辺の様子)。 |
| 『松陰私語』には、文明年間に上野国の岩松尚純が古河に出仕したときの様子として、居城の金山城から古河までは利根川を舟で往来したこと、御所には大きな「四足御門」があったこと、御所の周辺に宿所と呼ばれる家臣団の集落があったこと、座頭・舞々・猿楽等の芸能集団が活動していたことなどが記されている。 |
| また、第二代政氏のときには、連歌師の猪苗代兼載が公方家侍医田代三喜の治療を受けるために滞在し、殿中で句会を開催したこともある。 |
| 西ヶ谷恭弘「中世の古河城─古河御所と戦国期の古河城─」『古河市史研究』第11号、1986年古河市史通史編、191-207頁(古河の足利文化)。 |
| 尊勝院:もとは鎌倉にあり、足利尊氏の父貞氏が信仰していた。 |
| 長谷寺:成氏が古河城(御所)の鬼門除けとして、明応2年(1493年)、鎌倉から長谷観音を勧請したことが起源。 |
| かつては近世古河城立崎曲輪の場所にあったが、天正18年(1590年)に氏姫と共に市内鴻巣に移転した後、寛文2年(1662年)に現在地の市内横山町に移転。 |
| 雀神社:創建は崇神天皇の御代とも貞観年間(859年~877年)とも言われる。 |
| 八幡神社(八幡町):成氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を古河城三の丸の地に勧請し、のちの寛永19年(1642年)に、土井利勝が古河城の鬼門除けとして移転し、現在は市内八幡町(本町)にある。 |
| 八幡神社(北新町):成氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を古河城諏訪曲輪の地に勧請し、のちの寛永13年(1636年)に、古河城の拡張に伴って移転し、現在は市内北新町(本町)にある。 |
両上杉氏間の抗争(長享の乱)
| 扇谷上杉定正が家宰の太田道灌を暗殺した直後の長享2年(1488年)、山内上杉顕定が扇谷勢へ攻撃を開始すると、定正は古河公方成氏・政氏らの支援を得て反撃し、相模実蒔原・武蔵須賀谷原・武蔵高見原の合戦で優勢に立った。 |
| しかし、明応3年(1494年)に定正が陣中で急死した後、家督を継承した上杉朝良が駿河国の今川氏親や伊勢宗瑞(北条早雲)らの支援を得る一方で、今度は顕定が第2代古河公方となった政氏らの支援を得て再度対陣し、永正元年(1504年)武蔵立河原で扇谷勢が大勝したにも関わらず、永正2年に山内勢が朝良の本拠河越城を攻撃すると、朝良は顕定に和睦を申し出て乱が終結した。 |
| 「堀越公方の滅亡」・「上杉朝良と外部勢力(伊勢宗瑞等)の結びつき」などの事件が続けて発生して、旧来の秩序が不安定化すると、顕定は関東管領として政氏のもとに出仕し、さらに政氏の弟を養子に迎えて後継者(顕実)とするなど、関東管領を古河公方「御一家」と成すことで、いわゆる「公方-管領体制」の再構築と秩序回復を進めた。 |
公方家内紛(永正の乱)
| 永正3年(1506年)、足利政氏の嫡子である高基は、政氏との不和が原因で、義父の宇都宮成綱を頼って下野宇都宮に移座し、公方家を動揺させる内紛(永正の乱)が始まった。 |
| 永正6年(1509年)、顕定らの調停により、高基は政氏と和解して古河に帰座したが、翌7年に顕定が越後で戦死した直後、高基は再び古河城を離れて、公方家重臣簗田高助の関宿城へ移座した。 |
| 同時に山内上杉家でも家督争いが始まると、政氏は顕実を支援し、高基は憲房を支援したため、公方家と関東管領家にまたがる内紛に拡大した。 |
| 永正9年(1512年)、憲房が顕実本拠の武蔵鉢形城を攻略した後、顕実は政氏を頼って古河城に逃走し、その直後に政氏も小山成長を頼って小山祇園城に移座した。 |
| 永正13年(1516年)、小山氏内部において、高基を支持する小山政長らが主導権を握ると、政氏は扇谷上杉朝良を頼って岩付城へ移座し、同15年(1518年)の朝良死去後は、甘棠院(埼玉県久喜市)にて隠棲した。 |
小弓公方の成立
| 足利高基の弟である義明は、雪下殿(鶴岡八幡宮若宮別当)の地位にあり、空然と称したが、還俗して義明と改名した。 |
| 永正14年(1517年)、上総の真理谷武田氏は、高基側の下総の原氏から小弓城を奪取した後、義明は下河辺庄高柳(久喜市高柳)から小弓城に移座し佐藤博信(1989b)、106-116頁(雪下殿御座所考)。 |
| 小弓公方は、扇谷上杉朝良および安房国の里見氏、常陸国の小田氏・多賀谷氏らにも支持された大勢力であった。 |
| 永正16年(1519年)、高基は小弓側の拠点である椎津城(市原市)を攻撃したが、義明は里見氏の軍勢で反撃した。 |
| その後も、古河側の高城氏拠点根木内城と小弓側の名都借城(流山市)など各地で激戦が繰り広げられ、古河側重要拠点の関宿城も小弓勢の脅威にさらされた。 |
小弓公方の滅亡(国府台合戦)
| 天文2年(1533年)および天文3年と、小弓公方支持基盤となっていた安房の里見氏および上総の真理谷武田氏において、連続して家督争いが始まった。 |
| このとき、義明は里見義豊・真里谷信応を支持し、北条氏綱は里見義堯・真里谷信隆を支持した。 |
| 古河公方側でも、享禄4年1531年、関東管領が高基次男の上杉憲寛から、嫡流の憲政に代わる一方で、高基と後北条氏が接近し始める。 |
| 天文4年(1535年)に高基が没し、足利晴氏が第4代古河公方となった後の天文7年(1538年)に、晴氏の上意を得た後北条勢が下総国府台に進出した小弓勢を打ち破った(国府台合戦)。 |
公方体制内の後北条氏台頭
| 天文8年(1539年)、北条氏綱の娘が足利晴氏のもとに入嫁した。 |
後北条氏への抵抗(河越合戦)
| 扇谷上杉氏は、度重なる後北条氏の攻勢に耐えきれず、大永4年(1524年)に江戸城と岩付城を続けて失い、天文6年(1537年)には本拠の河越城も失陥していた。 |
| 扇谷上杉朝定と山内上杉憲政は、駿河の今川義元と計って後北条勢を挟撃し、天文14年(1545年)には河越城を包囲した。 |
| しかし、天文15年(1546年)の河越合戦において、両上杉・古河公方の連合軍は寡兵の後北条勢に敗れ、朝定は敗死・憲政は上野平井城に敗走・晴氏も古河城に敗走した。 |
| 劣勢になった晴氏は後北条氏の介入を排除できなくなり、足利藤氏を廃嫡し、天文21年(1552年)には自らも退いて、氏康の甥にして婿である義氏を第5代古河公方とした。 |
| 天文23年(1554年)、晴氏と藤氏は古河城に籠城し、後北条氏に抵抗したがかなわず、晴氏は相模の秦野に幽閉された。 |
| 弘治3年(1557年)、晴氏は古河城に戻り再度抵抗を企てるが、後北条氏に近い公方重臣の野田氏によって栗橋城に幽閉され、永禄3年(1560年)に没した。 |
古河公方の終焉(上杉謙信の関東侵攻)
| 永禄4年(1561年)には、足利義氏の関宿城を包囲し、さらに、足利藤氏を正統な古河公方として擁立するために、憲政とともに古河城に入れた。 |
| 越相同盟以後、後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方を擁立する必要性も低下し、天正11年(1583年)、義氏が男子を残さず没した後にも、何ら対策が取られないまま、古河公方は自然に消滅した。 |
| 関東地方の国人衆への官途補任の権限は後北条氏に移されたが、一方で足利氏に認められた特権であった五山の公帖発給権(古河公方の場合は鎌倉五山)を後北条氏が継承することは出来ず、「新しい公方が決まるまで」という名目で宿老衆が仮の公帖を発給し続けた阿部能久(2006)、198-274頁(喜連川家の誕生)。 |
末裔(喜連川氏)
| 天正18年(1590年)に後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、古河城に残された義氏の娘(氏姫)と、小弓公方の子孫である足利国朝との婚姻を成立させて、下野国喜連川に所領を与えた。 |
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第4代鎌倉公方足利持氏と6代将軍足利義教・関... |
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