| 入団当初、野村の古田評は「肩は一流だが、打撃は二流、リードは三流や」というものだったが、最大の武器である強肩を活かそうと、捕手としての技術をマンツーマンで教え続けた。 |
| 当時ヤクルトの正捕手だった秦真司は課題の弱肩を克服できず、途中から古田がその座を奪い106試合に出場。 |
| リーグ1位の盗塁阻止率を記録しゴールデングラブ賞も獲得した。 |
| 2年目の1991年、古田は攻守にわたって大きく成長した。 |
| 同年の-->オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)でMVPを受賞。 |
| シーズンでは落合博満との競り合いの末、打率.340で首位打者を獲得。 |
| 首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であった。 |
| 翌1992年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクルヒットを記録しMVPを受賞。 |
| シーズンも打率.316、自己最多の30本塁打、86打点を挙げるなど攻守にわたって活躍し、ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。 |
| 日本シリーズでは西武に敗れたが、翌1993年の日本シリーズでは再び対戦した西武を倒して15年ぶりの日本一となり、この年の最優秀選手に選ばれた。 |
| 1994年4月14日の対広島東洋カープ2回戦、前田智徳のファウルチップを受けて右手人差し指を骨折、シーズン序盤から長期離脱した。 |
| 結局76試合の出場、打率.238、3本塁打、19打点という成績でチームも4位に終わる。 |
| 1995年は公式戦全試合に出場。 |
| オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦が注目を集めた。 |
| ミーティングではイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、2年ぶりの日本一となった。 |
| 同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。 |
| 1996年は4位に終わったが、1997年に再び日本シリーズを制覇、捕手として初めてセ・リーグと日本シリーズ両方のMVPを受賞した。 |
| 1998年には史上343人目の通算1000試合出場を達成したものの、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。 |
| 同年限りで恩師・野村がヤクルト監督を退任。 |
| 同年オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、また労働組合日本プロ野球選手会会長にも就任した(プロ野球再編問題参照)。 |
| 若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われたシドニーオリンピックにおける野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の日本代表にチーム最年長選手として選出され15才下松坂大輔とバッテリー組んだ。 |
| 2000年はヤクルトがAクラス争いに絡んだこともあり、五輪の本大会には出場できなかった。 |
| ヤクルトは五輪期間を境に上位戦線から脱落し、3シーズン連続の4位。 |
| 自身は2度目の盗塁阻止率6割を達成。 |
| 2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。 |
| 8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。 |
| 復帰当初は主に代打での出場だった。 |
| 9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。 |
| 10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。 |
| シーズンでは自己2番目となる打率.324を記録し、日本シリーズでは2度目のシリーズMVPを受賞した。 |
| 2005年4月24日に通算2000本安打を達成。 |
| 4月27日の読売ジャイアンツ戦、左睾丸部打撲で全治1週間。 |
| これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。 |
| さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し、小野公誠や米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。 |
| 10月5日に通算1000打点を達成。 |