18650
18840
210724
%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6
%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6
%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6
%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6
%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 古田重然の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
プロフィール
- 古田重然とは
- 武将・重然
- 茶人・織部とその友誼
- 最期
- 人物・逸話
- 織部の茶の湯
- その他
- 登場作品
- 参考文献
- 関連項目
古田重然(ふるたしげなり/しげてる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。山城国西ヶ丘藩主。一般的には茶人・古田織部(ふるたおりべ)として有名。通称は左介。初名は景安。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している。 千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。
武将・重然
| 天文13年(1544年)、美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟で古田重定(勘阿弥、還俗し主膳重正と改名したという)の子として生まれ竜宝山大徳寺誌、後に伯父の養子となったという。 |
| 『古田家系図』重然の子孫所蔵に重定は「茶道の達人也」と記されていることから、重然も父の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される桑田忠親「古田織部の茶道」P17。 |
| しかし、松屋久重編の「茶道四祖伝書」では佐久間不干斎からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になった」と記されていることや、重然の名が茶会記に初めて記録されるのが天正11年(1583年)の重然40歳の時とかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする研究者もおり、事実ははっきりしない矢部良明「古田織部―桃山文化を演出する―」P17。 |
| 古田家は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番をつとめた「古田家譜」。 |
| 翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。 |
| 永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚「古田家譜」「豊後岡藩中川家譜」。 |
| 天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。 |
| 天正6年(1578年)7月、織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が反乱(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄・中川清秀を織田方に引き戻すのに成功する『信長公記』より。 |
| その後も羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀の丹波攻め(黒井城の戦いなど)、武田征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫「山城国上久世荘御年貢米御算用状」東寺百合文書」収録と少ないながらも武将として活動している。 |
| 信長死後は秀吉に仕えて、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話「烈公間話」が残る。 |
| 天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城の滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。 |
| この時、中川清秀が戦死したため重然は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州根来・雑賀討伐、四国攻めにも秀政と共に出陣している桑田忠親「古田織部の茶道」P27。 |
| 同年7月、秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部正(織部助)に任ぜられ、山城国西岡に所領3万5,000石を与えられた。 |
| この時、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、長女・せんを中川秀政の養女とした上で配偶し中川家の家臣とする。 |
| この重続の子孫は、重然の正系が絶えた後も中川氏の家老として存続した「古田家譜」。 |
| 同年9月、秀政の後見を免ぜられる。 |
| その後、九州の役桑田忠親「古田織部の茶道」P240、小田原の役に参加し、文禄の役では秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ名護屋城東二の丸に在番衆として留まり、朝鮮には渡らなかったとみられる桑田忠親「古田織部の茶道」P62。 |
茶人・織部とその友誼
| 天正10年(1582年)から千利休の書簡に織部の名前(左介)が見える。 |
| この間に利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲のひとりとされる。 |
| 天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放が決まると利休と親交のあった諸将が秀吉をはばかって現れない中、重然と細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行った。 |
| 利休死後は、その地位を継承するかのように天下の茶人となった。 |
| 慶長3年(1598年)には嫡子・重広に家督を譲り隠居した桑田忠親「古田織部の茶道」P70。 |
| 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。 |
| この時期の重然は、茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々なつながりを持ち、名実ともにまさしく天下の茶人として全国の大名に多大な影響を与える存在であった。 |
最期
| 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣のおりに重然の茶頭である木村宗喜が豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられた。 |
| 重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大阪城内へ矢文で知らせた続武家閑談などの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日(7月6日)に切腹を命じられた。 |
| 重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。 |
| 同時に嫡子・重広も切腹。 |
| 木村宗喜も処刑されている。 |
| なお次男・重尚(前田利常家臣)、三男・重広(池田光政家臣)、四男・重行(豊臣秀頼家臣)、五男・重久がいたといわれ、菩提寺の興聖寺には重然の墓の左右に墓石が並んでいる「茶道聚錦四」P43。 |
人物・逸話
| 大坂の役で徳川方として従軍していた際、月夜の明るい日に茶杓の材料を求めて竹藪に入った。 |
| 織部は出家していたので頭髪の無い禿頭であったが、その頭のせいで何やら光るものを大坂方が発見して怪しみ鉄砲を撃った。 |
| 弾は危うく頭上をかすめたので織部は慌てて陣中に戻ったという(『茶話真向翁』)。 |
| 千利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋の疑宝珠の中に見事な形の物が2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねた。 |
| すると一座にいた織部は急に席を立ってどこかに行ってしまった。 |
| 夕方になって戻ってきた。 |
| 利休が何をしていたのか訊ねると「例の疑宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。 |
| さて、2つの疑宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答えた。 |
| 利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心した(久須見疎安,『茶話指月集』)。 |
| 利休が茶入れの蓋を象牙で作らせたところ鬆(す)が入った疵物であった。 |
| 恐縮する細工人に対して利休は「これは面白いものを作ってくれた」と喜ぶことで慰め織部を呼んで茶会を催した。 |
| 利休はその際、蓋の鬆を勝手側に向けつまみの外側に茶杓を置いて点前を進めた。 |
| すなわち織部のほうに茶杓を置いたのである。 |
| 茶会のあと、織部はその茶煎を利休に乞うて持ち帰り、今度は利休を茶会に招いて茶煎の蓋の鬆を客のほうに向けつまみの内側に茶杓を置いた。 |
| 利休は「さてもよくやった。 |
| 織部ほど作意のできる茶人はまたとあるまい」と述べて褒め称えた(『茶話真向翁』)。 |
| 薄板を布かずに籠の花入れを置いていたのを利休が褒めて「籠の花入れを薄板に乗せることは昔から皆やって来たことだが、私はどうも面白くないと思っていた。 |
| このことに関しては私があなたのお弟子になりましょう」と言った、それから利休は薄板を布かずに直に籠の花入れを置いていたという(久須見疎安,『茶話指月集』)。 |
織部の茶の湯
| 織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、それを一つの流派に育て上げた。 |
| 職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、自らはいわば茶の湯のコーディネーターとして指導にあたった矢部良明「古田織部―桃山文化を演出する―」P28。 |
| 織部が利休死後、他の名だたる茶人たちを抑えて「天下一の茶の湯名人」と謳われたのは、織部のもつ大名という高い身分の力もあるとされる桑田忠親「古田織部の茶道」P71。 |
| 織部好みの代表的な茶室に、藪内剣仲に譲ったといわれる「燕庵」重要文化財が挙げられる。 |
| 書家として織部の書は左へ斜めにずれるのが特徴で、本阿弥光悦に影響を与えたとする説もある桑田忠親前掲書による。 |
| 茶書としては『織部百ヶ条』などを残した。 |
| 茶の湯の弟子とされる人物には小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、金森可重、本阿弥光悦、毛利秀元らがいる。 |
| 織部が用いた「破調の美」の表現法に器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があり、その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗銘須弥別銘十文字三井記念美術館蔵」や、墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟」国宝、東京国立博物館蔵があげられる。 |
| ただし、掛け物を切断する行為は他の茶人も行っており、織部が常習犯のように器物を壊していたわけではない(桑田忠親「古田織部の茶道」P181)。 |
| 織部について加藤唐九郎は「利休は自然の中から美を見いだした人だが作り出した人ではない。 |
| 織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」と述べた海音寺潮五郎「日本の名匠」中公文庫。 |
その他
| 岐阜県岐阜市の未来会館には「織部賞展示コーナー」が常設してある。 |
登場作品
| 『へうげもの』山田芳裕作の漫画。 |
| 平成17年(2005年)から講談社・モーニングに連載中)。 |
| 『割って、城を』司馬遼太郎の短編小説。 |
| 「軍師二人」に収録。 |
| 『本覚坊遺文』井上靖の小説。 |
| 講談社昭和59年(1984年)。 |
| 『豪姫』(富士正晴の小説、平成4年(1992年)に映画化、重然役は仲代達矢)。 |
参考文献
| 桑田忠親『古田織部人と茶と芸術』(徳間書店、昭和43年(1968年)、昭和52年(1977年再刊))。 |
| 『古田織部の茶道』(講談社〈講談社学術文庫〉、平成2年(1990年))ISBN4061589326。 |
| 矢部誠一郎監修『へうげもの古田織部伝数寄の天下を獲った武将』(ダイヤモンド社)、平成22年(2010年))ISBN9784478009062。 |
| 『茶道聚錦四織部・遠州・宗旦』(小学館、昭和58年(1983年))。 |
| 矢部良明『古田織部―桃山文化を演出する』(角川書店〈角川叢書〉、平成11年(1999年))ISBN4047021083。 |
| 児島孝『数寄の革命―利休と織部の死』(思文閣出版、平成18年(2006年))ISBN4784212833。 |
| 芸術新潮平成4年(1992年)7月号「特集天下の茶人古田織部の謎」。 |
| 小学館ウイークリーブック「週刊日本の美をめぐるno18桃山3利休・織部と茶のしつらえ」小学館平成14年(2002年)。 |
| 『よみがえる桃山の茶秀吉・織部と上田宗箇展』広島県立美術館(平成12年(2000年)4-5月)大丸大阪心斎橋店(平成12年(2000年)5月)日本橋三越本店(平成12年(2000年)5-6月)。 |
| 『利休・織部・遠州の書侘びと風雅の筆あと』佐野美術館平成7年(1995年)。 |
| 『織部陶芸指導者・大茶人・戦国大名としての古田織部のすべて』京王百貨店昭和42年(1967年)。 |
関連項目
| 原田城 (有岡城の戦い時に古田重然らが陣城としていた)。 |
| オリベプロジェクト(岐阜県が、創造的活動を行った重然の精神に基づき推進する政策)。 |
| おりべネットワーク(岐阜県多治見市を中心に展開するケーブルテレビ局)。 |
| オリベストリート(岐阜県多治見市にある3箇所の観光スポット)。 |
| おりべくらぶ(岐阜県多治見市で発行されているフリーマガジン)。 |
| へうげもの。 |
| 古田重勝(一族といわれるが、重然と混同されることも多かった大名)。 |
|
1544年
|
美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟で古田... |
|
1569年
|
摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
古田織部
古田織部 (ふるたおりべ) [筆跡]
1544年(天文13年)美濃〜1615年(慶長20年)
古田織部『消息』
古田織部プロフィール
武将、茶人。 本名... |
|
|
千利休
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天... |
|
|
細川忠興
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て豊前国小倉藩初代藩主、肥後国熊本藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏... |
|
|
細川藤孝
トップページ > 社会 > 細川藤孝検定 細川藤孝検定 生まれも育ちも超一流。当時唯一の古今伝授伝承者であり、近世歌学を大成させた一流の文... |
|
|
蒲生氏郷
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、ま... |
|
|
細川幽斎
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名、歌人。号は幽斎玄旨。一般に俗名の藤孝(ふじたか)で知られる。また一時期、領地の長岡を名字としてい... |
|
|
小堀政一
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家。備中松山藩2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。一般には小堀遠州(こぼりえんしゅう)の... |
|
|
中川清秀
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。幼名虎之助。通称瀬兵衛。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田源氏(あるいは河内源氏傍... |
|
|
今川義元
戦国時代の武将、駿河国の守護大名・戦国大名。足利氏の傍流吉良氏の分家に当たる今川氏の出身で、駿河今川家第9代当主。父は第7代当主・今川氏親、母は父の... |
|
|
豊臣秀頼
日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。天下人。豊臣秀吉の次男。母は側室の茶々(淀殿)。子は側室和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松... |
|
|
足利義輝
室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年-1565年)。父は第12代将軍の足利義晴。なお、第10代将軍足利義稙の養子となった阿波公方... |
|
|
荒木村重
戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有... |
|
|
古田氏
元ヤクルト・古田氏が川西市にふるさと納税 友人に紹介 RSS TwitterでRT はてブ 最終更新:2009年03月11日 14時42分 兵庫県川西市は10日、プロ野... |
|
|
古田重勝
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。伊勢松坂藩初代藩主。美濃出身で、古田重則の長男。古田重治の兄。正室は石河光政の娘。子は古田重恒(長男... |
|
|
徳川秀忠
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。 |
|
|
前田利家
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生ま... |
|
|
福島正則
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 |
|
|
仙石秀久
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。... |
|
|
金森長近
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。織田氏、豊臣氏、徳川氏の家臣。名ははじめ「可近」(ありちか)、後に織田信長から一字を賜り、長近を名乗... |
|
|
古田重然さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|