| 1974年の大学2年生のときに友人から、「お前は本当におしゃべりが面白くてうまいから、アナウンサーになったら」と言われたのがきっかけで、東京アナウンスアカデミーに通う。 |
| 1977年、全国朝日放送(現在のテレビ朝日、採用試験時は日本教育テレビ)にアナウンサーとして入社。 |
| 面接にて広辞苑の丸暗記という特技を披露し、採用される。 |
| 同年7月には『ワールドプロレスリング』担当に配属され、越谷市体育館での長州力VSエル・ゴリアス戦で実況デビュー。 |
| 入社1年目のアナウンサーが実況デビューするのは極めて異例だが、この理由は3年後に控えたモスクワオリンピックをNETテレビが独占中継することになり、プロレス中継の担当アナが手薄になったためである。 |
| 1980年からは『ワールドプロレスリング』で山本小鉄とコンビを組む。 |
| 「おーーーーーっと!」「燃える闘魂」「掟破りの逆サソリ」「名勝負数え唄」「人間山脈」「風車の理論」「エリート・雑草逆転劇」などの独特な表現は「過激実況」と呼ばれ、アントニオ猪木全盛期、新日本プロレスの黄金期を支えてきた。 |
| 特に、「おーーーーーっと!」の調子は、プロレスファン以外に対しても古舘をメジャーに押し上げたきっかけとなったと言える。 |
| その後F1など他のスポーツの実況でも「おーーーーーっと!」をよく使用していた。 |
| これは古舘独特のフレーズであり、ものまねの対象になるなど、様々なパロディも散見された。 |
| また、大発行部数を誇る週刊少年マガジンで連載される「異能戦士」にフルタチのキャラで頻繁に登場し、プロレスファン以外にも知られる存在となった。 |
| なお、フリーになるかならないかの頃に、フジテレビの『オレたちひょうきん族』の1コーナーである「ひょうきんプロレス」に覆面アナウンサー「宮田テル・アビブ」(宮田輝のもじり)として出演したこともある(「奮い立ち伊知郎」と名乗ったこともある)。 |
| しかし、NGを出してひょうきん懺悔室に送り込まれ、水を被り、正体を明かした。 |
| 1984年6月テレビ朝日を退社後、大学時代の友人と芸能事務所「古舘プロジェクト」を設立。 |
| フリーになってからは、10年以上にわたったワールドプロレスリングの実況を1987年3月に勇退、その後の1989年から1994年までのフジテレビ系のF1放送や、競輪における特別競輪(現在のGI)決勝戦の実況中継、更には、自らの一人芝居型講演会「トーキング・ブルース」を始め、「クイズ日本人の質問」、「おしゃれカンケイ」等、数々のテレビ番組に出演。 |
| 1988年には映画「スウィートホーム」に出演、1991年にはNHK連続テレビ小説「君の名は」に出演し、ドラマにも挑戦した。 |
| また、テレビ朝日系列の『ニュースフロンティア』(1991年4月-1994年3月まで放送)という『ニュースステーション』のオンエアが無い土曜日の午後11時から放送されていたニュース番組も一時期担当した。 |
| 1994年-1996年までの3年間、NHK『NHK紅白歌合戦』の白組司会を務めた。 |
| 民放のアナウンサーを経た人物では初めての紅白司会者となった。 |
| プロレスファン以外の視聴者にも古舘の名が一躍認知されるようになった端緒は、1985年の『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)の司会抜擢であった。 |
| 当時民放各局に乱立していた歌番組の中でも抜きん出た格上の番組であり、そこにフリー・独立から1年しか経たない、司会者としてのキャリアが浅かった古舘が抜擢されたことについて、当時の視聴者から危惧の声が上がっていたようだが、その当初の視聴者の反応も、当時の同番組の看板司会者であった芳村真理の強い後盾もあったためか聞かれなくなり、司会者としてのキャリアを上げる大きな契機となった。 |
| 1988年に芳村は夜ヒットの司会を勇退し、古舘自身も独立早々の苦境の時に最初にフリーの司会者として使ってもらったという恩義から、現在も、同番組、そして芳村真理に対しての強い敬意の念を抱いているようである(『SmaSTATION』に出演した際にこの点については述べている)。 |
| 古舘の結婚式の仲人は芳村夫妻が務めており、現在も芳村・古舘は家族ぐるみの親交を続けている。 |
| 1989年、アントニオ猪木がスポーツ平和党から参議院選挙に立候補した時には、「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」というキャッチコピーで応援した。 |
| 2000年の大晦日に路上で年越し「トーキングブルース」を行いカウントダウンを行わないまま喋り続け、21世紀に入って5分ほど過ぎたところで観客に知らせた。 |
| 世界水泳では2001年の日本・福岡大会と2003年のスペイン・バルセロナ大会を2大会連続で特別実況し、世界陸上では1999年のセビリア大会から2003年パリ大会にかけて、女子マラソンの実況を担当した。 |
| 2004年4月5日から、テレビ朝日系の報道番組『ニュースステーション』の後番組に相当する『報道ステーション』のメインキャスター(アンカーマン)に就任した。 |
| そのため『おしゃれカンケイ』をはじめとする他局のレギュラー番組やコマーシャル出演すべて降板し、『報道ステーション』一本に絞っている(ただし後述のゲスト出演やテレ朝系の特番に出演することもある)。 |
| 2006年7月3日の日本テレビ『みのもんたの“さしのみ”』にゲスト出演。 |
| 『おしゃれカンケイ』終了以来、1年3か月ぶりに日本テレビ系列に出演となった。 |
| この日のトークでみのもんたが「『報道ステーション』に一度出てみたい」という希望に対し、古舘が「良ければ是非」と快諾する。 |
| このオンエアから4日後の同年7月7日に、みのの報ステ出演が実現した。 |